原発事故被害者相双の会 会報129号が届きましたので転載いたします。
津島を愛し津島のために
原発事故から 12 年になろうとしています。
12 年前の私の家族は、上は 78 歳の義理の父、下は5歳と3歳の孫たちの4世代 10 人家族で暮らしていました。
義父(ちち)の名前は「陸」といいます。
とても穏やかな人でした。
津島が大好きで大切に思う義父は、津島のために何かできることはないかと、いつも考えている義父でした。
津島の自宅には、義父が集めた津島にまつわる資料がたくさんあります。
津島の「生き字引」と言われるほど津島のことをよく調べ、津島を誇りに思っていました。
津島には開拓者が多く、若い頃の義父は開拓組合に勤め、津島に入植してきた人たちの世話をしてきました。
苦労をしている開拓者が少しでも楽になるようにと知っていることすべてを指導しました。
こうした働きぶりが認められ、31 歳の時に浪江役場に移り、津島や町民のために定年退職まで勤めました。
役場からも、津島の皆さんからも「困ったことがあったら陸さんに聞け」と、慕われ信頼される義父と家族になれたことが幸せです。
帰りたいけど帰れない住民、無念の涙
その義父が4年前に、ふるさと津島に帰ることなく、避難先で生涯を終えました。
みんな津島から離れて各地でバラバラの避難生活をしているのに遠くから来てもらうことは申し訳ないと思い、誰にも訃報の連絡をしませんでした。
自分のふるさと津島を、あんなに大切に思ってきた義父が避難先福島で亡くなるこの無念さを、皆さんご自分の親だったらどうですか。
きっと、自分のふるさとで、自分が建てた家で、みんなに見送られて生涯を終らせてあげたいと思いませんか。
私達は、それができなかったんです。
無口な義父は「帰りたい」とみんなの前で話す人ではありませんでした。
そんな義父が入院した時には、医師からもう永くないと言われ、義父に呼びかけても反応がないほどでした。
でも、私が義父の手をさすっていた時、急に私の手を強く握り、「帰りたい。帰りたい。連れて行ってくいろ~~」と最期の力を振り絞って言いました。
この時の義父の声が、今もまだ耳から消えません。
「今日は遅いから明日津島に行こうね。」というと安心したのか眠りにつきました。
その 2 日後に亡くなりました。
それが義父の最後の言葉でした。
大切な父を一人津島へ返すことは出来ない
あれから4年、義父はまだ津島に帰っていません。
納骨していないのです。
誰も住んでいない津島に義父を納骨するなんて寂しすぎて、できません。
義父の願う帰還は、家族全員が津島に帰り、近所の人たちも帰り、孫やひ孫が山や川で遊べる津島であり、彼岸やお盆になれば、津島のみんながお墓参りに来てくれる津島です。
住民が誰一人いない。
子や孫、ひ孫までが安心してお墓参りもできない津島に納骨しても義父が喜ぶはずがありません。
義父が大切に見守ってきた孫やひ孫の将来を危険にさらすことを許すはずもありません。
孫やひ孫たちが帰れないほど、高い線量の津島の土に眠ったとしてもいずれ義父は、無縁仏になってしまいます。
子や孫たちに、つなげられる完全な除染を
こうした悩みに苦しんでいるのは、私達家族 だけではありません。津島地区の菩提寺は長安寺といいます。
私達と同じく原発事故から避難をした長安寺は、事故後に福島市に分院を作りました。
この福島分院には、原発事故のせいで津島にも避難先にも納骨できないままの遺骨が 100 尊以上もあるのです。
この中に義父もおります。
12 年が過ぎようとしている今でも、この苦しみから抜け出せていません。
亡くなってからも津島に帰りたいと思っていることを決してわすれてはならないのです。
今も亡くなる人は増え続けています。
子や孫たちに、つなげられなければ津島がなくなってしまう。
そんな現状から救ってほしくて、私たちは津島の完全な除染を求めているのです。
原発事故は孫の成長記録まで消すのか
津島の我が家の柱には、孫の成長の印があります。
孫の名前と日にちなどを書き、1歳の誕生日には歩けもしない孫を抱きかかえ柱に印をつけ、2歳になれば自分で立つことができると、はしゃぐ孫を「動かないで」と転ばないようにささえながら、家族が印をつけます。
3歳になると、つま先立ちをして大きく見せようとする孫を「ズルしてる~」と家族で笑いながら印をつけたものです。
しかし、2011 年からの印はなく、帰るたびに柱を何度見ても印は増えません。
空白のままです。
事故当時は幼かった孫も今では高校生になり、身長も 180 ㎝を超えました。
原発事故さえなければ、我が家の空白の柱にこの12 年間の成長の印、幸せの思い出が刻まれていたはずです。
家族の幸せの象徴でもあったこの柱もいずれなくなります。
家族の幸せな暮らしがあった我が家は、この 12 年間で床も天井も抜け落ちて以前の姿はありません。
周囲の家は、ほとんど解体され我が家を見た人たちから、あまりの酷さに「解体しないの?」と聞かれるほどです。
現状を見てから判決を
義父が、苦労をして建てた家を解体するなんて本当はしたくありません。
それ以上に解体をしない一番の理由は、原発事故によって平穏な私達の生活を奪われた現実をより多くの皆さんに見ていただきたい。
原発事故の恐ろしさを知ってほしいからです。
見なければわからないこの現状、聞いただけでは自宅に広まるカビの臭いも、イノシシなどの獣があたかも自分の家のように入り込み、自宅は荒らされ、あちらこちらに散らばる汚物の酷い臭い、そして山に覆われた津島という地域の除染の在り方もわかるはずがありません。
津島を視察に来た人たちは、みな「聞いていたものとは全然違う。やっぱり見なければわからないねぇ。」と、驚いて帰ります。
どうか、裁判官の皆様 津島に来ていただき、義父が建て、家族の幸せな思い出が詰まっている我が家を解体する前に見ていただけませんか。
津島に足を運び、原発事故がもたらした津島の現状を見てください。原発事故の被害を直視してください。
国は科学的根拠もなく都合の良いように決めた帰還解除の線量基準
国や東電は、私達の平穏な暮らしを奪ったのに1ミリシーベルトまで下げようとする努力もしない。
そんなことがあっていいはずがありません。私達は、今ふるさと津島に帰れない原発避難者です。
私達の存在はこの国の中で、もういないものとされたのでしょうか。
国が帰還できるという 20 ミリシーベルトは、安心して子供たちが帰れる線量ではありません。
帰れない若者は避難先に残り、高齢者ばかりが津島で暮らすとなれば二重生活になります。
そうなれば、家族の、津島のさらなる分断にもつながります。
せめて帰還困難区域である津島も同じ年間線量1ミリシーベルトにしてから帰還解除とするべきだと思います。
そうでなければ若者たちはふるさと津島で安心して生活ができません。
孫やひ孫が安心して帰れるときが、義父の願っていたふるさと津島に帰る時だと思います。
被ばくの不安がない、家族全員で、津島住民みんなで、楽しかったふるさと津島で暮らせるようにしてください。
再び、我が家の柱に私の孫やひ孫の成長の印を毎年付け続けられる、そんな家族の幸せな生活ができる津島になれば、きっと義父も津島のお墓で安らかな眠りにつけると思います。
そんなふるさと津島にしてください。
以上
福島の福幸のために格闘して12年(農と交流からの再生)
飯舘村出身 福島在住
渡邊とみ子
福島市生まれの私が飯舘村に嫁ぐという事は、郡を跨いでの生活で、当時は言葉や風習も違っていて中々なじめなかった。
まして、農家の長男の嫁が子供ができないという事は相当のプレッシャーで潰されそうになった。
体は大きかったが、なるべく目立たないようにと暮らしていた。
一人息子を授かったのは結婚して七年目のことだった。
それと並行して少しずつではあったが、飯舘村で暮らす事になじんできた。
今では、「今の私の原点は飯舘村での暮らしである」と思っている。
地域づくりや市町村合併を考える法定協議会などの委員としての活動の中で、一個人の意見を尊重してもらえたという経験が私を成長させてくれたと思っている。
飯舘村特産品開発に邁進
合併をしない自立した村の為に村では七つの新規作物の研究会ができ、その中で「イータテベイクじゃがいも研究会」の設立総会で会長になり、村在住の育成者である「菅野元一」氏が開発した「じゃがいも」と「いいたて雪っ娘かぼちゃ」に関わることになるが、原発事故で全てを奪われてしまい、飯舘村での栽培とこれまでの想いや活動ができなくなり、この先どうしたらいいのか途方に暮れたこともあった。
それでも種を繋いでいかねばという思いで必死に自主避難した長野県白馬村から県や村の担当者と連絡を取り、あの当時は原発事故で全村避難を余儀なくされた時でもあり、先ずは避難先確保が優先で営農再開など考えられない時であった。
それでも私は避難先で畑を借り、種を蒔いた。
有休農地で耕地整理もされてない田んぼを一枚の畑にし、農機具もない中での作業はまさに開拓だった。
地べた這って種を蒔くというこれまででは考えられなかった営農再開でした。
そうした努力で芽が出て花が咲き実となった時の感動は大きかった。
しかし、福島の農産物というのは放射性物質が付きまとう。
原発事故後間もない時に商標登録
2011 年 3 月 15 日に品種登録、同年 11 月 11日に商標登録が認められた「いいたて雪っ娘」を出そうとしたら、「飯舘の名前を出すのか?」と、言われ凄く悔しい思いをした。
何故飯舘を名乗ってはいけないのか!と憤った。
当然不安はあるわけなので、私は自分の中で世界一厳し い基準 20bq/kgと自主基準を決めてひたすら測定して、基準以下を確認して出荷していた。
これはもしかして自分で決めたものが基準越えで出せなかったら、自分で自分の首を絞める事になるという「農家のかーちゃん」の覚悟であった。
その覚悟を持って福島で生産する、飯舘村を発信するという思いは後に福島大学と一緒に立ち上げた「かーちゃんの力・プロジェクト」の活動でも引き継がれ、避難者でありながら、被災者支援をしていく、そして自立と自律心を持って活動した珍しい活動だったと思う。
延べ1000 人程のサポーターさん達にかーちゃん達の商品と活動報告をしていくというのは仕事づくりにもなり、福島の発信や復興にもかなり寄与したと自負している。
避難解除になりプロジェクトは卒業し、飯舘村での営農再開がスタートした。
諦めず家族と夢を描き、原発事故そして放射性物質との闘い
私はおそらく何十年と営農再開は無理だろうと思っていたが、「駄目」「駄目」ではなく、先ずはやってみて、その結果駄目だったら対策を考えてやれば良いと思えるようになり、避難解除と同時に種を蒔く準備をした。
心配した放射性核種はほとんど問題なく、飯舘村で生産した「いいたて雪っ娘」は道の駅「までい館」やイオンさんでの販売ができた。
ところが、避難生活で環境はすっかり変わり、猿や猪の被害がありその対策にも膨大なお金や労力を費やした。
種を採るという重要な役割があるので飯舘村だけで栽培するというのは大変なリスクがあるので、当面は避難先の福島市と飯舘村での二地域居住での生産活動となる。
避難生活は人間の裏の部分も見えて、活動を行えば行う程、色々な理不尽なことが私に襲って来て「もういい!勝手にどうぞ!」と、何度思ったかわからない。
一番の応援団、家族の在宅終末介護と看取りの経験と新たな種の決意
私を側で見ていて「お前はこの間ずっと頑張ってきた。
俺がそういうのだからそれで良いだろう」と励ましてくれた夫のおかげで頑張ってこれた。
大工をやっていた夫がこれからは一緒にかぼちゃを作るんだと言っていたが癌を患い、夢半ばで亡くなってしまった。
忙しくしていた私が夫の最期には在宅介護、看取りをした時間は本当に濃密だった。
そして、義母も昨年6 月に他界。
義母も在宅介護・在宅看取りだった。
在宅介護の経験はこれからの自分の生き方を考える貴重な時間だった。
何かをやろうとすれば困難にぶつかる。
何もしなければ何も残らないし、何の成長もない。
とかくやらない人ほど立派な理由付けをする。
蒔かぬ種には実もならない。
あの時、やらない理由を付けてやらなかったら今はない。
未来を見て対策考えて生きて来た仲間達と歴史を作って行きたい。
かけて来た時間は誰にも取り戻せはしない。
私のような凡人が賢く生きる唯一の方法は一つの事をあきらめないで継続してやって行くことであると、原発事故の避難生活から学んだ。
◇電話090(2364)3613
◇メール(國分) kokubunpisu@gmail.com