原発事故被害者相双の会 会報125号が届きましたので転載いたします。
事故処理もプルトニウム処分も見通したたず
一旦原発事故が起きると取り返しのつかない事になり再生・復活は到底不可能です。
1979 年 3 月 28 日、アメリカペンシルベニア州の「スリーマイル 島原子力発電所」で発生した大きな事故(レベル5)、 1986(昭和 61)年 4 月 26 日、旧ソ連ウクライナの チェルノブイリ村に立地していた原子力発電所事故(レベル7)、そして 2011(平成23)年3月11日福島第一原発事故(レベル7)と、大規模な事故は 3 回も起きました。
スリーマイル島原原発事故からすでに43年ですが完全廃炉までは見当が付きません。
チェルノブイリ原発事故は手の施しようもなく石棺して覆っています。
福島第一原発事故による廃炉は45年と言うが 100年過ぎても完全廃炉は不可能ではないかと思われます。
それに半減期2万4千年の放射性物質であるプルトニウムの最終処分場をつくるなどあり得ない事です。
日本の国土は軟弱であり、さらに世界の中で も最も多い地震災害国なのです。
日本は侵略戦争を繰り返し平和を脅かしてきた責任から、世界から注目される現憲法を制定し77 年間一度も戦争に参戦してきませんでした。
原発を稼働させることにより自然界にはないプルトニウムを生み出します。
つまり核兵器の材料ですですから核廃絶に逆行します。
「小型」にしても事故発生確率が高くなるだけ
「小型」にしても事故発生確率が高くなるだけ、それでも政府は原発の再稼働、開発と新増設に踏み出しました。
「既存の原発ではなく、事故対策が改良された小型原子炉などの次世代型」だといいますが、これらはまだ海外で試験中の段階で、安全性は少しも実証されていません。
そもそも小型にすれば 安全というものでもありません。
100万kWの原発1基に対し20万kWの「小型」原発5基となると、むしろ事故発生の確率は5倍になるといえる。
基本的原理も必要な装置もさほど違わないのですから、安全な原発などというものは、特に活断層だらけの地震列島ではとうていありえません。
――海底トンネル放水は漁民、国民を愚弄するもの――
東電は、福島第一原発から排出され貯蔵されている140万トンに迫る汚染水(東電もマスコミも「処理水」と呼ぶ)を、あくまでも海洋放出処分する方針である。
約1キロに及ぶ海底トンネルの新設(8月4日 に着工)などという糊塗策をもって。
全漁連や県民はもとより、水産物を好む国民にとって断じて容認できない事態である。
韓国等々の近隣諸国民が懸念するのも当然である。
風評被害ではない実害です
トリチウム(三重水素)は放射能としては弱いものの、水となっていて、魚貝類や海藻を通じて人体のあらゆるところに出入りし、ベータ線を内部照射するので、体中の細胞や遺伝子などに悪影響を与えかねず、 決して「風評被害」にとどまるものではない。
第二原発の敷地こそ活用すべき
第二原発はすでに廃炉と決定されている。
この広大な敷地に新たに建てられる設備といえば、使用されていた燃料棒を水冷プールから引き上げ、いずれ空冷に移行するための建屋くらいのものである。
空地は広い。
ここに汚染水貯蔵タンクを造って、内径2インチかせいぜい4インチの1本の配管を敷設して輸送すれば、まだ何十年でも貯蔵できる。
たとえ放水するとしてもトリチウム(半減期12.3年)を十分 に減衰させてからできる。
タンクよりも第二原発敷地にセメント固化して貯蔵(建屋を作って半永久的に保 管)することもできる。
何倍に希釈しようが不変
第一原発から海洋放出するさいには、国の排出基準の四十分の一未満にまで海水で希釈しながら放出するから心配は無要だと説明しているが、四百倍に希釈しようが四千倍に希釈しようが、放出されるトリチウム の絶対量は不変である。
放射性セシウム 137(半減期30.0年)やストロンチウム 90(同28.8年)等は濾過されているとはいっても、汚染水の量が多いだけに残存する総量は無視できない。
その点からも第一原発での放水計画はや めて第二原発に送り、セメント固化か長期のタンク貯蔵にすべきである。
安心・安全を最優先でなければならない
第二原発ではなく第一原発の敷地に大きなタンクを造り直すことによって、貯蔵年数を増やすことができるという考えもあるが、ここにはすでに様々な放射性廃棄物が貯蔵されており、大きなタンクに造り直すこ と自体が危険な作業となる。
セメント固化する設備も、それを大量貯蔵する設備を建設することも困難である。
東電はこの解決策を実行せよ
漁民、国民のためのこのような明快な解決策があるのだから、さほど高くもない所要資金の出費を東電に惜しませるわけにはいかない。
双葉郡の町村は帰還困難区域の避難解除が続いて います。
わずかですが街に人の姿が見当たるようになりました。
「避難解除」区域を歩き、出会った方々の声を聞きました。
再開して懐かしく思い出話
南相馬市小高区で石田勝男さんと11年半ぶりに お会いし懐かしい思い出話に花が咲きました。
事故前は親子4代7人家族で暮らしていました。
避難も家族は一緒で、相馬市、宮城県の蔵王、そしてまた相馬市。
原町区等々と転々としました。
なぜそんなに転々としたのか、それは孫たちの学校でした。
「原発事故で避難してきた」「福島から来た」となると話しも聞いてくれない。子供たちは学校でも「除け者」 にされてしまうから転々と転校するしかなかった、というのです。
途中、息子さん家族は小高には戻らないと決め中古住宅を探し求めました。
その後解除されたが90歳を超えたお婆さんは「戻りたい」「家に帰りたい」と言い出し、解除と同時に帰還しましたが、結果は高齢者 だけの集落となってしまいました。
お婆さんは元気なだけに100歳まではと思っていましたが、叶うことができず96歳で亡くなりました。
原発事故がなかったら孫、曾孫に囲まれ天寿を全うすることができたのではないかと思います。
これからは夫婦二人の生活となり先行き不安はあるが家を 守り続けたいと思っているとのことでした。
被害者は我慢に我慢をして生きているときに、国は原発の「再稼働、新設」、「汚染水海洋放出」と言い出し、私たち被害者を逆なでするような対応なのです。
解除された双葉町で出会った高齢者
双葉町は事故から11年半ぶりに避難指示解除さ れたのは全体のごく一部ですが、二人の老夫婦が家の周りが雑草で生い茂っているところを掃除していました。
「帰ってきたのですか?」と聞くと「いやあまだだ, このままじゃ住めないからリホームしてからだ」。「子供さんたちも一緒に帰還するのですか?」「いやあー 子どもはいねいから近くの町に兄弟、親類があっから帰ってくんだ」と返事。
それ以上は話し込めず「お体に気を付けてお元気で」といって別れました。
双葉町駅でなにやら悩み事があるような感じのお年寄りがいたので、「双葉町の方ですか?」と声をかけると「んだあ」「息子の墓参りに甥子が来るから待ち合わせてんだ」とのこと。
双葉町の海岸近くの農家だったが津波で全て流され、挙句の果てに原発事故で双葉町に住めなくなり、 11年以上も避難を続けてきたという。
事故前は6人家族で息子は東京へ単身赴任をし いました。
町の指示で川俣町に避難したが、妻が体不自由なため埼玉の娘家族の所へ世話になり、息子は子どもをこのままにはしておけないと、孫たちを東京へ連れて行きました。
埼玉の娘の家は廊下も狭く、妻が風呂の時は毛布に乗せ引っ張り看護しましたが、3ヶ月もすると限界になったので、双葉町に相談して中通りの施設に入れてもらったものの満杯のため、まるで「たこ部屋」で衰弱してきたため病院に入れました。
真夏ではありましたが、節電のためか満足な冷房でもなくますます衰弱 してしまい間もなく亡くなってしまわれたそうです。
その後、いわき市で避難を続けてきたが、息子が東京で脳腫瘍となり亡くなり、孫たちは東京で生活しており、自分は84歳になるが一人ボッチの生活です。
会話する人もいなければ、笑う事もない、故郷の人に会えないものかと近くの団地へ行きぶらぶらと歩いて見る時がある。
自分と同じ思いで団地周りをしていた人が「不審者」 と思われ、通報され逮捕されたと聞きますから、「おちおち歩けねーだ」と、話されました。
息子を双葉町営墓地へ埋葬したので時々来るが誰 にも会えない。
原発事故がなかったらこんな思いもせず、故郷で家族と共に生活でき、妻もまだまだ生きられたと話す。
双葉町解除されたが
事故から 11 年半ぶりに一部避難指示が解除され、特定復興再生拠点区域(復興拠点)として、町の面積の約 1 割が居住可能になりました。
町役場も双葉駅前に真新しい新庁舎となりました。
しかし、周辺は崩れたままの家屋が多くあります。
事故前の街並みからは程遠い現状です。
汚染状況はどう だろうと気になるところである。
これで良いのかと疑問なのは、これまで解除された地域も同じですが、居住者の年齢制限がないことです。
赤ちゃんから高齢者まで誰でも居住可能だというのです。
解除されてようやくふる里へ帰れると喜んでいる人も居るでしょう。
帰りたくても帰れない人も居ます。
苦しい選択であろうと思います。
解除された一部ですが 8 月 30 日現在の双葉町の「避 難指示解除時の放射能測定結果」を表にしました。
参考にして頂ければと思います。
(Cs‐セシウム、赤字は1万㏃以上)
写真は 3.11 のままになっている双葉町の現状です。
無人の荒れた家屋が並び,商店は閉じたまま。
それに比べ役場庁舎は綺麗で素晴らしいものです。