原発事故被害者「相双の会」会報78号が届きましたので、転載します。
この間原発事故が福島県民に与える 影響については主に小児甲状腺がん について、御用学者によってさまざまなデーターの改ざんがされてきた。
また避難生活など事故が及ぼす成人への健康破壊の状況は高血圧や糖尿病、精神疾患などについては調査されてきたが総合的なテータは明らかではなかった。
その一端がやっと明るみにでた。
福島県在住の小・中学生らが、年間 1ミリシーベルトを下回る地域での教育を求めている「子ども脱被曝裁判」で、原告側弁護団が被曝影響を示す証拠として、南相馬市立総合病院の患者数データを福島地裁に提出したのである。
南相馬市立総合病院の事務課が 同市議会議員の大山弘一議員に提供 したがんや生活習慣病データだ。
このデータをめぐっては、 福島県議会でも質問されており、県の 担当課長は「高齢化によるもの」と答弁した。
今後他都道府県の同種データと比較し単なる「高齢化」だけが原因でないことを立証する作業が始まっている。
脱被ばく子ども裁判の原告の子どもたち(2017年撮影 OurPlanetTV HPより)
事故発生時、夫婦2人と次男、次女の4人が同居してました。
定年後は、私が主に3町歩程度の田や畑を耕作していました。結婚するであろう二男夫婦と同居し、付近に住むであろう次女と行き来しながら、穏やかな老後を過ごせると考えていました。
思いで深いのは主催者側として働いた町民大運動会や野球・ソフトボール・バレーボール等の競技です。
これらは健康作り、地域連帯の醸成や町作りの原点でした。
すべてが分断され失われた現在、何をよりどころに「健康作りや町作り」出来るでしょうか。
また地域農業の進展に繋がる農業生産団体の結成等に関わりました。
特に「大原邑づくり推進協議会」が福島県知事賞と全国農業協同組合長表彰を受けました。
原発事故で各地を転々とした後、福島市に自宅を新築し妻と2人暮らしです。
二男と同居し、近所に住む二女と行き来をするという構想は全く崩れました。
昨年4月に一部を除き富岡町の「避難指示が解除」されました。
1年半を経た現在、約7パーセントの旧住民が戻っています。
私が住んでいた清水前地区には150戸に近い家屋がありましたが、完全に戻り通常の生活をしていると思われる家庭は皆無です。
集落の崩壊は明らかです。
私は、『故郷』とは、秋には稲穂の波が広がる田や畑の風景であり、繰り返される盆や正月の行事であるのです。
今、町内には復旧・復興の作業員として働く人のアパートがあっても、家族談笑の声は皆無といえます。
私は、在職中、原発設置の4町で構成する「福島県原子力安全連絡会議」の事務局責任者として、退職後は会議員として数年間関与しました。
その間、「電力施設は、地震や津波に対して安 全なのか」「緊急停止装置は正しく機能するのか」等の疑問を呈してきました。
その都度、「地震や津波に対しては万全であり、安全性に問題ない」と東電幹部や原子力安全保安院担当者から回答されました。
今となっては、まことに空虚な言葉であり残念です。
富岡を「返してもらえるなら、返してほしい」 「戻れるものなら、もどりたい」それが私の心からの叫びです。
生活物資がない
家族は私たち親子3人と猫2匹、南相馬市に在住していました。
息子は生 後 7 ヶ月になったばかり、3月 11 日 14 時 46 分に大地震、12 日には原発が 水素爆発、夫の祖母が南会津に住んで おり、そこを頼って 13 日に避難しま した。
福島浜通りは、春を感じられる季節でしたが、会津はまだまだ冬、積雪があり寒く時折雪が降ってきます。
慣れない季候に苦労しました。
数日の避難だろうと思っていたの でそれなりの準備はしていませんでした。
店が開いてない、開いていても 品物が揃っていない状況でした。
ガソリン給油には制限があったため遠出には制限しなければなりません。
引越しが続く
水道水を使うことにも抵抗があり、 水の購入も大変でした。
息子が幼く、オムツもミルクも必要なのに品切れで売っていません。
やっと見つけたオムツは、一枚一枚が貴重なので、交換する回数をなるべく少なくしました。
するとお尻がかぶれてしまい泣きじゃくる。
そんな中、風邪をこじらせてしまい病院へ連れて行きましたが、 患者で溢れており、やっとの思いで診察していただきました。
もう目眩しそうな時間でした。
避難から約1ヶ月後、南会津から会津若松市のアパートへ移り、主人は会社が始まると同時に南相馬市へ戻りました。
しばらくは義母が心配をしてくれて一緒にアパートで生活していましたが、間もなく義母も南相馬市の自宅へ戻り、私と息子は全く知らない 会津若松市での避難生活が始まりました。
精神的に体調を崩す
私たち家族はその後、約5年間バラバラに生活をしなければなりませんでした。
親子が週一度しか会えない生活を余儀なくされ、精神的にも不安定になりました。
息子は2歳になる頃から、夜中に泣き叫ぶ夜驚症(やきょうしょう)を発症しました。
夜泣きとは明らかに違う症状。
毎晩決まった時間に発症します。
突然悲鳴をあげ、全身を使って手足を激しくバタバタさせ暴れるのです。
目は開いてる時もあれば、瞑ったままの時もあり、20~30 分おきに朝方まで続きます。
原因はなんとなく分かりました。
離れて暮らす大好きなパパは週末のみ、会津に来てくれる。
嬉しくてたまらないけど、またすぐに帰ってしまう。
朝方早くに帰る気配に気づくと、布団の中で号泣。そして数日後なれた頃に帰って来る、またいなくなる。
ずっと繰り返され、息子の気持ちのバランスが取れなくなったのだと思います。
この夜驚症は、4歳頃まで続きました。
原発事故さえなければ、家族が離れて暮らすことはなかった。
夜驚症も発症しなかったはず。
なによりも、子供の成長を夫婦で見守ることができなかったことが悔しいです。
7ヶ月までは、子供の成長の喜びを夫婦で味わうことができた。
子供の相談も、すぐにできた。
避難してから主人は子供の成長をリアルタイムで見ることはできなくなりました。
子供が成長し、目が離せなくなってちょっとしたことでイライラしてしてくると私の心に余裕がなくなってしまいます。
もし主人がそばにいてくれたら、そんな怖い母親からの逃げ場になってくれたかもしれない。
家族が一緒だったら、子供はもっとたくさん笑って過ごせたかもしれない。
家族でいろんな場所に行って、もっとたくさんのことを経験できたかもしれない。
そう思うと胸が苦しいです。
全ての責任は東電にあり
現在は、会津若松市から引っ越すことができやっと家族が揃っての生活出来るようになったけど、避難前に住んでいた南相馬市に戻ったわけではありません。
土地を買い新築しました。
私たちには東電・国からなんの賠償もありません。
それでも家族の安心・安全を考えたとき、背負わなくても良い借金を抱えてしまいました。
離れ離れになってしまった私たち家族、精神的に不安定になってしまった息子、目に見えない放射能に私は今でも未来が不安でしかたがありません。
一生この不安は拭え切れないと思います。
避難を強いられ、そのため家族が一緒に生活できず、子供の成長を共に出来なかった主人の気持ち、遊びたかった息子、等々を思うと大事な時間を奪った原発に悔しい思いは一生消えません。
と考えています。匿名でもけっこうです。
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