原発事故被害者「相双の会」会報74号が届きましたので、転載します。
第 1 陣は國分富夫ほか 221名で、今年3月22日に福島地裁いわき支部の判決がありました。
その内容は、216名中 213名の原告に対し、一律で 150万円又は 70万円の損害を認めるというものでした。
また、裁判所は、被告の重過失も否定しました。
原告団と弁護団は、被告の責任を軽視し、 被害の実態を真正面から直視せず極めて少額の賠償しか認めなかった判決として、厳しく糾しました。
2陣訴訟は 378名の原告が昨年 12月6日から本人尋問を始めていますが、 第 1 陣への極めて不当な判決(控訴して仙台高裁で争う)を覆すため、被害の実態をさらに訴えています。
6月13日におこなわれた第2陣の口頭弁論から川俣町山木屋の菅野みどりさんの訴えを紹介します。
菅野みどりさん(川俣町山木屋)の訴え
楽しかった酪農
原発事故が起きた 2011年3月時点で、 山木屋で同居していたのは、私たち夫婦と息子夫婦、8歳と4歳の孫でした。
祖父は山木屋村で助役をしながら、稲作、蚕(養蚕)、野菜など耕作してきた人で、 私には誇りでした。
私は子どものころから農業の勉強をしたいという気持ちが強く、川俣高校に入学しましたが親に黙って辞め伝習農場(現福島農業短大)に転校しました。
卒業して実家で農業の手伝いをしていたとき、馬喰(ばくろう)が連れてきた牛を見て、牛を飼いたくなり父に子牛を購入してもらいました。
毎年2頭ずつ増やして、30年以上かけて成牛(乳が搾れる牛)40頭、育成牛 10頭まで増やしました。
1日あたり 800kgくらいを搾れると、牛乳の売り上げだけで贅沢しなければ何とか生活できました。
朝5時に起きて牛の状態をみて牛舎の掃除やエサやりを家族で分担した後、 5時30分頃から搾乳を始め、午前8時には収乳車が来て牛乳を回収する。
その後、タンクの掃除や消毒などをして、午前8時30分から9時頃に朝ごはんを食べ、夜は、午後8時頃までは牛の世話などをして、晩御飯を食べるのは午後9時頃。
のんびりした生活で牛を育てること自体が楽しかった。
酪農体験にも良く来ました。
東京の渋谷に住む小学校5、6年生の子どもたち、 福島大学の学生、福島農業短大の学生が来ました。
知的障害の子どもや自閉症の子、いじめの加害者になった子などが1 か月間くらい酪農体験に来たこともありました。
原発事故で牛乳から放射能が検出され、牛乳や小松菜・ほうれん草の廃棄というのは辛い経験でした。
川俣町文学サークルが編集した冊子 (「むらさき」)に私はこう書きました。
「廃棄処分という位農家に対する侮辱はない(略)東京電力、政府の御偉いみな様方、今、お米ひと粒、牛乳一滴、作ることができますか」。
「東京電力は、 (略)安全神話を掲げて、福島県民を誑かしていた。経済的利益に目が眩み、自然豊かな山河を崩壊して作った原子力という化け物が、このような惨事を起こしても、その後始末もできないで、私達 の住む家までも奪い取ってしまった卑怯者!!」。
これは私の正直な気持ちです。
山木屋に帰還したが
息子夫婦と孫二人の避難先は、狭い仮設住宅で6畳が1部屋、4畳半が2部屋とキッチンにはテーブルを置くこともできないくらいでした。
息子の嫁さんは仮設住宅の暮らしの中で吐き気や耳鳴りで体調悪化した。
私たち夫婦の借り上げ住宅は、壁に掛けたカレンダーが風でめくれたり、床に敷い た新聞紙が床下からの風で吹き上がったりするような、隙間が多い家でした。
夫は不眠症と高血圧症になり、私も血圧が上がりました。
私たち夫婦は昨年の12月26日に山木屋に戻りました。
母親の懐に抱かれたような安心感を覚えました。
事故前は一緒に生活していた、長男夫婦と孫は川俣町の町中に家を建てて生活をはじめました。
孫は一時的に山木屋の自宅に来るが、 そんなに長くは滞在しません。
除染されていない土地に立ち入ることに不安があり、自分たちの土地の境界を案内することすらできません。
山木屋には黒い袋が山積みになっています。
農地は荒れ放題で、重機とかが目に付くようになっています。
100年以上建っている家はなくなり引っ越してしまっています。
ここには誰々の家あったんだ、というのを見るのは辛いです。
事故前は、JR のバスが 114号線を走っていましたが見なくなりました。
JR の バスが走らないだけでもがっかりです。
山木屋に帰還して、ご近所との交流はめっきり少なくなりました。
以前は同じ地区の人と立ち話をよくしましたが、今は不安が先に立つのか、そういうことも少なくなりました。
また、子どもや若い人 がおらず年寄りばかりなので、あまり行き来する気持ちにもならない。
以前は近所の子どもの顔を見るのが楽しみでした。
お年寄りが1人で亡くなるケースも増えてます。
平成30年2月ころ、50歳の息子さんが亡くなって、その後、爺さんが亡くなり、一ヶ月の間60歳前半の方を含め2人が亡くなりました。
ご家族がいなくて発見が後れるようなケースもあります。
山木屋の風景
酪農を奪われたのは半殺しと同じ
酪農を再開する展望はありません。
再開にあたって最大の問題は費用です。
子牛1頭 100万円×20=2000万円。牛舎内で使う機械は、ミルカーは 200万円、バンクリーナー500万円。バキュームカー100万円、バルククーラー130万円。
以上合計で約 3000万円。牛舎の外で使う機械は 1000万円。
具体的には刈り取り機(牧草)120万円、テッター(刈り取りした牧草を反転させて干し草にする)100万円。
集草機、ベーラー、ラッピングマシンなどです。
それだけ費用をかけても、山木屋の牛乳は売れないから回収できる展望はありません。
年齢的なこともあります。
誇りある菅野家の酪農と農業を失ったということです。
仕事をとられたということは、「何もやらないであの世に行け」と言われているのと同じです。
そうした生きがいを奪われたのは半殺しのようなものです。
裁判官は神様の御名代です。
どうか私たちを救って欲しい。
以上
チェルノブイリ原発事故後の旧ソ連では、子供や市民を守るためにチェルノブイリ法が制定されました。
これは放射能災害の被ばくから、命・健康を守るために制定された法律です。
追加被ばく線量年間 1mSv を基準に、移住・避難・保養・医療検診等が保障されました。
年間5mSv 以上は「強制移住区域」。
1~5mSv の地域は移住の権利が与えられ、移住先での雇用と住居を提供。
引越し費用や損失財産の補償を行いました。
移住を選択しなかった住民には非汚染食料の配給、無料検診、薬の無料化、非汚染地への「継続的保養」、年金優遇も実施。
年間 0.5mSv~1mSv の地域は「放射線管理強化ゾーン」として、保養の権利・医療検診の保障がなされ、市民の健康と生活を守っています。
日本の原発事故被害者にもこういう法律が制定されてしかるべきではないでしょうか。
青木美希著 発行所・講談社
著者は「朝日」の記者で、はじめにこう書いている
「私は7年間、福島第一原子力発電所事故を追い続けている。
この間、避難者に向けられる目は次々と変わった。
当初は憐(あわ)れみを向けられ、次に偏見、差別、そしていまや、最も恐ろしい『無関心』だ。
話題を耳にする事が激減した。
感心が薄れたところで、政府は支援を打ち切り、人々は苦しんでいる。
私は、世の中の変化に翻弄(ほんろう)される彼らに密着し、向き合ってきた。
原発事故直後、避難所となった各地の体育館に東北の人々が押寄せた。
都内の体育館では、孫と避難した 60 代の女性が「どうしたらいいの」と切羽詰まった表情で話した。
力士がボランティアで炊き 出しを行い、マッサージや相談コーナー が所狭しと並んだ。
数ヶ月後、都内に避難した小学生は、 同級生から『あなたは放射線を浴びているから中学生になるまでに死んでしまうでしょ』と言われ、精神状態を崩した。
1年後、福島県の仮設住宅に住む女子高生は『もう県外の人とは結婚できない、と聞きました』と将来を案じた。
そしていま、避難者たちが『どうしてまだ避難しているの』という言葉を投げかけられている。
闘病中の夫を支える女性もその一人だ。
『帰りたくても地元の医療機関が閉鎖したまま、夫が治療を受けられなくなるのに』と嘆く。
帰れば夫の命を縮めかねない。
生きる選択肢が限られた彼らに、いったいどうしろというのか?
そもそも、彼らがどうなっているのかということすら、もはや世間の関心を失い、忘れられそうになっている……
結果として、不都合な事実を『なかったこと』として揉み消そうとしている国家権力の思惑通りになってしまった」。
私は避難生活を送った者として、良くもここまで調査して事実を記していただいたことに感謝申し上げたい。
この本を多くの方々に読んで頂き原発事故、放射能公害の悲惨を後世に引き継いでいたたきたい思いで一杯です。
(相馬在住 K.M)
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