原発事故被害者「相双の会」会報69号が届きましたので、転載します。
1945年終戦の年、広島・長崎に原爆が投下されて間もなく73年になるが被爆者二世三世と 精神的苦痛で今もって悩み苦しんでいる。
1986年4月26日に旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた事故から32年、核燃料を取り出すこともできなく、廃炉にもできず建屋ごと石棺した。
これで終わった訳ではない。
単なる応急処置ではないか、それに30年以上も費やしたがこれで安心と言うわけではないだろう。
チェルノブイリ原子力発電所で壊れたのは一基だけだが、福島第一原発は三基が破壊され原子炉が崩壊して手の施しようがなく世界に例のない事故となった。
東京都の面積の半分に相当する 1100km2が汚染され10万人を越える人々が生活を根こそぎ破壊された。
日本政府は「原子力緊急事態宣言」を発令し、緊急事態だから法令を守らなくてもよいとし、さまざまな特別措置法を乱発して、 国や東電の都合の良いようにしてきた。
「原子力緊急事態宣言」を発令するほど被害を出しながら、加害者である東電も国も誰一人として責任を取らず、処罰もされない。
それどころか、原発を再稼働させ海外へ輸出しようとしている。
福島の原発事故の悲劇を忘れさせようと「復興」という名目で国は避難した人々に対し住宅支援を打ち切り、汚染地に帰還せざるを得ない状況に追い込んでいる。
原発事故の悲劇は後世から後世へと引き継がれて行くのだ。
自然界にないセシウム137はウラン235を原発で核分裂させて生成されるものだ。
セシウム137は100年で十分の一ですから消えてしまったわけではない。
賠償金だけの問題ではなく、孫子、ひ孫の代まで考え少なくとも「100年 賠償」は当然のことです。
それだけ責任が重い。
二度と原発を稼働させず、福島のように不幸な大惨事をおこさせないことだ。
どんどん増えるフレコンバックの山
映画の主人公である、福島原発被害東京訴訟団長の鴨下祐也さんを招いて話を伺った。
主催は「原発問題を考える埼玉の会」。
隔月で学習会を重ね、この日は24回目だった。
東京訴訟団は、国と東電の責任を追及する300人が原告になっている。
そのほとんどが国が決めた避難区域の「外」からの避難者だ。
彼らはなぜ避難しているのかを自力で説明しなければならない。
その理不尽と闘い続けてきた。
鴨下さんは家族四人でいわき市に暮らし、 福島高専で教壇に立っていた。
屋上で野菜の水耕栽培をし、地域と都市を結びつける農業を目指した。
原発事故が起きた直後、 鴨下さんは一家で避難するが、いわき市は 3・11以降、一度も避難指示が出されたことはない。
事故から一か月後には子どもたちは学校に通い、人々は普通に買い物をし、 新たに家を建てる人もいて、フツーに見える。
だから「子どもを守りたい」という思いで避難した人は「神経質な人」にみられてしまう。
鴨下さんは、お母さんたちの不安感情を裏付ける客観的なデータを示し、避難の必要を訴えてきた。
いわき市の家は、今も高いセシウムが計測される。
水耕栽培していた野菜からも高い値が出る。
が、テレビでは放送直前になって「数値はオンエアできません」と伝えてきた。
それは一度や二度ではなかった。
だから映画に出ることにしたのだという。
今年の春には、今まで避難区域だった地域が、次々と解除された。
そして区域外避難者への住宅「支援」が打ち切りになった。
「埼玉の会」に参加する人の中には福島からの避難者も多く、心が揺れている。
南相馬市から避難している元教師の男性は「危険なレベルだっていうのはわかってるけど、帰りたいんだよなあ」と言う。
「オレは あとニ、三年しか生きないからいいんだよ」 と。
鴨下さんは「高齢者が一人で帰れるわけではないでしょう。必ず介護する若者や子どもも、一緒に帰ることになる」と言い切った。
「世代間倫理」という言葉を思い出す。
子どもたち、次の世代に何を遺すべき かを本気で考える必要があると、私も思う。
鴨下さんはいう。
避難した人も、とどまる人も、帰る人も帰らない人も、どちらも被害者なのだ。
加害者である国が、避難者を「支援する」というのは間違っている。
加害者は被害者に対して「責任をとる」。
この軸を見失ってはならないと。
野外活動もできない子どもたち
1983年~87年に山木屋小学校PTA会長、1979年~94年に緑の少年団活動などを歴任しました。
私は高校時代に川俣町出身の同級生から「山木屋の山猿」と馬鹿にされて悔しい思いを沢山してきたので、山木屋の子供たちには町中の子どもにも引けを取らず山木屋出身であることを誇りに思うようになってほしかったからです。
二つ目に、次代を担う子供たちが山木屋の自然を大切にするような大人になってほしいと願ったからです。
三つ目に、子どもたちが山木屋の地域コミュニティを盛り立てていくような大人に成長してほしいと願ったからです。
子どもたちと一緒に植樹をしたり、年一回の草刈り、炭づくりなどをおこなっていましたが、森は手つかずの状態になっています。
政府の里山再生モデル事業の対象になり平成29年10月に除染が開始されるはずが、今も始められていません。
除染のためには、腐葉土をはぎ取る必要があるが、 土の栄養がなくなってしまう。
除染をしなければ、森を活用することもできない。八方ふさがりの状態です。
現在、山木屋小学校の生徒は5年生が5名、6年生が5名で4年生以下は一人もいません。
山木屋小学校は、川俣小学校の一部を間借りしており、入学者が0なので近い将来休校になると思います。
少年団は4月に結団式をやっているそうですが、野外活動はほとんど行われていません。
放射能の影響で、保護者などから反対があったからです。
広大な「自然塾」開設目前で事故
2006年以降は、「自然塾山木屋村の開設事業」を行ってきました。
山木屋の里山を 山木屋住民はもとより県外や都会の子どもたちにとっても自然学習、情操教育の場として利用できるようにし、自然環境を保全する活動を目的としたものです。
自然散策路や自然学習場を設けて自然の素晴らしさを実体験できるようにしたり、山菜・キノコ・薬草採りをしたり、レンタル農場を作って農作を試みてもらう、など自然体験の場とすること。
美しい里山を維持するため、 計画的に樹木を伐採、植樹をするなどです。
零細な建設会社の経営を辞めて「自然塾 山木屋村」の開設事業に取り組むことにした。
住民有志と相談して、ゴルフ場用地として東急建設が買い占めたが不良資産化していた広大な山林を安く買い取る計画を立てた。
資金がなかったので、幼馴染の友人に投資をお願いして、有限会社を設立してもらい、その会社が東急建設側から土地を買い取って、「自然塾山木屋村」に年40万円で賃貸するという形をとりました。
東京ドームの 35 個分に相当する土地はなだらかで、「自然塾山木屋村」の構想とぴったり一致していた。
平成23年4月1日に開設する予定でした。
開設予定日のわずか 20日前に事故が発生しました。
夢にまで見ていた開設を目前にして完全に潰されてしまった。
仮に除染したとしても元の山でなくなり、土地の栄養もなくなり作物はできないので、どうにもならない。
私の人生が奪われた。
生きる気力も失った。
私にとっての「ふるさと」は完全に奪われました。
私は原発事故を心の底から憎みます。
故郷を詠む
南相馬から避難して7年、「家族があるから助け合い何とか避難生活を続ける事ができた。しかし『ふる里を忘れろ』と言われても忘れられるものでない」と言うMさんから会報に寄せられましたのでその一部を紹介いたします。
○ 6年も仮設に住んで 大熊の空を見つめて 雨を恨んで
○ 生まれきた双葉の里は放射能 住むことできず 永の別れと
○ 放射能 避難生活帰宅して ふる里の風匂い確かむ
○ 原発事故で避難 ふる里に 先祖に別れさみしい人生
○ 放射能 わがふる里を奪い取り 親子三代別れて暮らし
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。
匿名でもけっこうです。
◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com