7月1日原発事故被害者「相双の会」会報50号が届きましたので、転載いたします。
「相双の会会報」は 2012 年4月に創刊号を出してから、みな様の支えで 50号を迎えることができました。
原発事故から1年たち、それぞれの避難先で悶々としていた者たちがあつまり、「このままでは人間がダメになってしまう、何とかすべえ」と「原発被害者相双の会」を発足させてから4年たちました。
そして「相双の会」会報で全国の皆様に、避難者の怒り、苦しみをお伝えすることができてきました。
そこで 50号を記念し、今回は各方面からのメッセージをたくさんいただきました。
これからもご愛読のほどをよろしくお願いします。
さて、原発事故から 5年4ヶ月になろうとしています。
福島の被害者は表面なにもなかったかのよう過ごしているように思われますが、 しかし、故郷を捨て切れなく心の内は複雑で苦しんでいます。
福島で生まれ育ち他県へ就職し、年に一度は先祖の墓参りへ家族で行く、親類の方々と会う楽しみも奪われてしまったと嘆く人が多くいるでしょう。
帰還せかす政府
政府は2014年以降、福島原発で指定した福島県内各地の避難指示の解除を進めています。
2014年4月に田村市内の指示区域を解除。
6ヶ月後に川内村、 昨年2015年9月に楢葉町でも解除されました。
楢葉町の場合、人口は約7300人ですが、今年6月3日時点で帰還したのは311世帯536人にとどまって います。
19才以下は8人しかいません。
町職員は「子育てする若い世代は、放射線量への不安があり帰還をためらっている」と明かしています。
葛尾村、川内村は 6月12日解除、南相馬市は7月12日解除。
飯舘村についても、政府は6月6日に来年(2017年)3月末の避難指示解除を勧告しました。
五輪まえに賠償打ち切り、原発を「終り」に
政府は原発事故への賠償期限を18年3月までに設定。
飯舘村の解除は期限のちょうど1年前にあたります。
いくら綺麗ごと言っても、帰還しても農業で生活はできず、生活は確実に苦しくなります。
誰が見ても分かるように賠償金を打ち切りたいから急かすのです。
五輪もあり、原発を終わりにしたいという国の意図がひしひしと伝わってきます。
福島第一原発事故後、5年が過ぎても 十分な事故の検証もされず、除染も進まず廃炉もままならない状況にも関わらず、国は避難した住民を「帰還」に追い込み、原発の再稼働へと突き進んでいます。
しかし原発事故は今も進行中です。
私達はこの未曾有の大事故にどう向き合っていくのか、今一度考えていかなければなりません。
「相双の会」会報は、そのために事実をお知らせしていきます。
第1点は被害者の基準です。チェルノブイリ基準は「年1~5ミリシーベルトの地域を移住する権利のある地域」としていますが、日本はこの権利を、全く認めていません。
さらにチェルノブイリ基準は「年5~ 20ミリシーベルトの地域を移住義務・立ち入り禁止地域」としましたが、日本は 「住める地域」としてしまいました。
はじめは「緊急時の暫定基準」だったはずなのに現政府は永久基準にしてしまったのです。
旧ソ連よりも冷たい日本政府なのです。
第2点は、宅地エリアが 20ミリシーベ ルト以下になったという理由で避難指示が次々と解除されていることです。
解除されると仮設住宅から出なければならず、 1人月10万円の慰謝料は、2018年3月で打ち切られます。
10万円の12か月の7年で840万円、年5ミリシーベルトを超える所(チェルノブイリの立ち入り禁止地域)が住居近くに存在する故郷へ帰れ、と国は言うのです。
第3点は、年20ミリシーベルト未満の地域からの自主避難者に出していた家 賃補助を2017年3月で打ち切るのです。
約1万世帯への年81億円程の支出ですが、除染関連費6000億円の1%程なのに・・・。
その自主避難者への慰謝料は1人8~12万円、子供と妊婦へは40~72万円の1回限りでおしまいです。
「帰りたくない」と訴えたら「生活保護に移行する道はあります」が役所の回答だったと報じられています。
そこで、なぜ日本はチェルノブイリ基準を守れなかったのか、と考えてみると原発の周辺人口があまりにも多かったからです。
となれば浜岡や東海村で事故が起きれば、もっと人口が多いのでその基準はもっとゆるくされる可能性があることです。
湖西市民をはじめ原発から60km 圏の人々は、日野行介記者の力作「原発棄民」にされてしまう恐怖です。
会津坂下町で開催された「憲法を生かす両沼の会」主催の講演会に呼ばれたのは6月19日のこと。
テーマは「呆れ果てても諦めない」7月の参院選に向けて30年前から語っている「はだしのゲン」を通じて戦争と原爆の現実を、
そして14年前から取り組んでいる「チェルノブイリの祈り」からは急性放射線障害で亡くなった消防士とその妻の悲劇をそれぞれ想像していただき、平和や人権を謳う憲法がいかに尊いか、講談を混じえお話しました。
おりしもこの日は元海兵隊員の軍属による女性暴行殺人事件に抗議する沖縄県民大会が那覇市で開催され6万5千人が集結。
沖縄といえば今年の1月半ば、米軍キャンプシュワブゲート前の座込みに参加すべく講談教室の生徒さんたち10人と辺野古へ行ったことを思い出します。
「東京から来た機動隊員は豚一匹確保といってみなさんを排除していると知り、 矢も盾もたまらずやってきました。私は福島県出身です。
国民は法律で年間被曝量が1mSv と決められているのに、福島県人は20mSv のところに帰還させられようとしている。
1mSv は1万人に一人犠牲になる数字。
つまり500人に一人犠牲になっても仕方がないというわけです。
福島県人は人間扱いではなく、言ってみれば猿扱いです(怒)
猿県出身の私が豚となって排除されに来ました。
沖縄、福島、私たちはともに国から捨てられた県民同士。
猿豚棄民同盟を組んで、仲良く明るく闘いましょう」。
やけのやんぱちみたいな挨拶です(笑)
精神科医の蟻塚亮二先生は「音楽や芸能など文化には励ます力がある」と言います。
沖縄の永年の闘いは三線やカチャーシー踊りを楽しむ沖縄文化があればこそ。
そして福島にもすばらしい民謡や伝統文化があります。
震災から6年目、沖縄から闘い方を学び、呆れ果てても諦めず、ともに進みましょう。
未来に責任を持つために「脱原発」を
脱原発をめざす首長会議事務局長/元東京国立市長 上原 公子
2011年 5月、地方自治体議員の仲間とともに南相馬市側の避難地域の境界線に立った時の悲しみを、忘れることができ ません。
海岸線の津波に流されたがれきはそのままでしたが、それでもまだ人間の復興の力を信じることができました。
しかし避難地域の境界線は、そのささやかな希望さえ一瞬に吹き飛ぶほどの衝撃が広がっていました。
そこは、何もなかったかのように春が穏やかに訪れ、芽吹きの鮮やかな緑でおおわれていました。
一 直線に続く道路には、全国から集められた警察官が 10人ほどたっているだけです。
景色は同じなのに、境界の向こう側は、 ひょっとしたら私たちは二度と立ち入ることができない場所になってしまった現実は、風景が美しいほどにあまりにも無残で、私を突き動かす原動力になりました。
8月再度被災地を訪ねた後に、日弁連に駆け込み、ロシアの「チェルノブィリ法」を日本に作ってほしいと頼み込みました。
望みは、「被爆者手帳」の交付を盛り込み、 いつでもどこでも、生涯医療の支援が受けられるための保障制度が必要だと思ったからです。
これが支援法成立のきっかけになりました。
2012年 4月には、「脱原発をめざす首長会議」を設立し、全国の首長たちのネットワークが活動を開始しました。
原子力が 人間のコントロールができないものであることが分かった以上、リスクがあるものを止めることが、私たちの未来に対する責任であり、義務であるはずです。
何気ない日常の営みこそが、何より幸せであったことを、福島原発事故は私たちに気づかせてくれました。
子どもたちには、もう二度とこの悲しみ味あわせないために、住民の生命に全責任を負う「脱原発をめざす首長会議」は、これからも諦めることなく発信し続けます。
東電と自民党政権の責任は無限に大きい
元日本社会党政策審議会 原 野人
1971年からのことである。社会党政策審議会に入り、平和利用とされる原発も中止させねばならないことを訴えながら、各地の勉強会にも参加するようになった。
國分さんをはじめ、浜通りの皆さんに言われて、勉強会や調査に何度訪れたことだろう。
いくつもの問題をあげ、特に大地震による冷却材喪失・炉心メルトダウンの危険性を訴え続けてきた。
10年ほど前から旅行ができない体になったことが残念でならない。
浜通りは今でも最も訪れたいところの一つである。
第一原発の状況はあまりにも無残であるが、それ以上に心が痛むのはここを故郷とした皆さんのことだ。
安倍首相は「状況はコントロールされている」という。
しかし「空間の年間積算線量20ミリシーベルト以下」というICRPの緊急時の基準によって、各地の避難指示の解除を進めている。
賠償金も打ち切ろうとしている。
各格納容器の底のデブリがどのような状態かはまったく不明のままだ。
凍土壁では十分に遮水できず、高濃度汚染水は増え続け、東電も政府もいずれ放流しようとしている。
これらのため、緊急事態宣言を解除するわけにはいかないのだ。
除染ごみ等の処理・中間貯蔵施設は東電敷地外に作るのではなく、第二原発の敷地に作るべきだ。
第一であふれようとする汚染水は、放流するのではなく、セメント固化して第二の敷地に管理保管すべきだ。
目先の利潤のために原発を造ってきた東電と、地震列島でそれを進めた自民党政権の責任は限りなく重い。
事故によって様々な状況の生活を強いられてきた皆さんが、これからどこに住むことになろうとも、人として健康な生活ができるように政府と東電にどこまでも補償させねばならない。
会報 50 号に寄せて―裁判傍聴続けてきました
「相双の会」を支える山形の会 中村 平治
東日本大震災と福島第一原発事故の当時、山形県には 13,000名を超える福島の人達が避難してきました。
あれから間もなく5年半、山形市と米沢市を中心に 2,000人以上の人達が、今も苦しい避難生活を続けています。
國分さんには、菅井益郎国学院大学教授と國分さんを講師に迎えた県内3ケ所 の講演会をはじめ、報告会や集会に何十回も山形に来て頂きました。
私達は「相双の会を支える山形の会」を立ち上げ、パンフ「相双の叫び」を広め、 署名活動、そして「相双の会」会報を広めてきました。
また私達の会は被害者の生活再建,再出発を行なうための必要な賠償を求めて「福島原発避難者訴訟」の裁判支援をしています。
山形に避難した人たちに「被害者が声を上げよう」と國分さんが働きかけた結果、「避難者の会」の結成、山形県と福島県の自治体への要請行動と請願、「生業訴訟」に参加するなどの成果に繋がっています。
山形県には脱原発運動の集まりが幾つかあります。
山形市の「幸せの脱原発ウォーキング」は 170回を超え、米沢市の 「さようなら原発・米沢」は毎月の集まりを持っています。
「避難者の声を聞く会」、 「自然エネルギー講演」、「放射能被曝の 講演」、「パレード」などを続けてきました。
今回は会の設立3周年の記念事業として 「小出裕章講演会」を 6月11日に開催し盛況のうちに終わりました。
福島地方裁判所いわき支部には裁判が あるごとに山形市と米沢市から車に分乗し 10名程で毎回参加しています。
原告の皆さんとはすっかり顔馴染になりました。
法廷で原告の方々から述べられる切実な本人尋問には涙を流しながら聴いています。
裁判官の「現場検証」採用など遅々として進まない事に原告の皆さんと憤りも共有してきました。
しかし、原告団と弁護団 の団結と粘り強い取組みにより、第 16 回 の公判で大きく前進し展望が開けた事を喜んでいます。
私達は福島県の隣人として安全より利益を重視し、原発事故の責任を誰も取らない原子力マフィアを許せません。
「二度と福島の事故を繰返させない」の声をさらに大きくして、国と東電に責任を取らせることが、原発の再稼働をさせない、全ての原発廃炉へ繋がると思います。
私達 は「相双の会」の皆さんが完全勝利するまで行動を共にするつもりです。
学業のため富岡には 15年間しか住まな かったが、親族縁者 26人のほか多くの友人知人が避難生活をしており、私にとっても富岡は掛け替えのない古里であり、町役場の動向も気がかりな毎日です。
3・11より 5年3か月経っても町民の不安は続いたまま。
いつ避難解除するのか、戻れるようになるのか。解除の条件は何なのか、その条件をどう受け止めるのか。
町全体が模索している中で行政が鍵を握っているが、一方通行では本来あるべき町民本位の復興は難しいのではな いか。
避難解除と町民帰還はべつもの、町再生と町民復興はべつものだからです。
私が昨年、今年の2回実施したアンケート調査で、早すぎる避難解除への拒否反応がはっきり表れました。
放射線量に対する恐怖感と年間1mSVへのこだわりです。
最近の町広報誌によると、帰還困難以外の区域(全体の7割前後)142地点で4月に行った線量測定の結果では、1 mSV 以下の地点はわずか 22 か所(15%)、 「チェルノブイリ法」で住む権利を保障された5mSV 以下でも 56か所(39%)足らずです(つまり5mSV 以下は町全体の 3 割程度)。
こんな状況のなかで、町役場は 50%の 町民が戻らないと想定して復興プランを練っている。
災害公営住宅、教育施設、福祉センターなどインフラ整備投資で帰還政策を進めようとしているが、現実を生きる避難町民への目配り、気配りがさっぱり見えてこない。
特に若年層との絆をつなぐ努力と投資をしないと、古里への思いが薄らぎ戻らない町民が増え、その結果、大多数が老人と役場職員で構成される町になってしまうのではないかと、 勝手に危惧しています。