11月30日(月)原発事故被害者「相双の会」会報43号が届きましたので、転載します。
「帰るかどうか自由です」!?
誰も故郷への思いはある。年齢を問わず帰りたいです。
しかし、放射線量は通常の3倍から20倍はあるでしょう。
いやもっと高い100倍200倍の所もある。
若い子育ての方々はとても帰れる環境ではないと思います。
各自治体は帰還のための方策を練っていますが確固たる対策はない。
やっているのは無理をして春祭り、夏祭り、秋祭り、農地に菜の花、タンポポ、コスモスを植えアピールしている。
このような活動が「帰還につながる」「復興につながる」と努力している事には、頭の下がる思いです。
しかし、国と行政はその裏で「帰るも帰らないも自由だ」と言います。
私はこの言葉に怒りを感じる。
心の髄まで奪い壊しておきながら都合のいいように「自由にしてくれ」とは何事か。
許される事ではないでしょう。
低線量被爆が絶対安全という科学的証明がないにも関わらず無責任です。
「自由だ」などと言いながら、帰還しなければ借り上げ住宅補償を打ち切るというのでしょう。
責任は誰が?
「帰還宣言」した町村でどれだけ戻っているでしょうか。
若い方々は殆ど戻っていない。
楢葉町を避難解除してから二ヶ月足らずであるが帰還したのは4~5%です。
それも高齢者が殆ど。
このまま若い方々が戻らなかった場合、行政機関は成り立つでしょうか。
それでも各首長、国は無責任に「帰るも帰らないも自由です。強制しません」という。
かつては原発誘致に反対者がいたにも関わらずろくな議論もせず町村議会は率先して誘致決議をしてきたのです。
「昔のことだ、過去のこと」ではすみません。
子供たちの夢や希望、住民の財産、生きる望みまで奪っておきながら無責任である。
賠償は山、川、海すべて3.11以前に戻るまで続くのが当たり前です。
このままでは被災地は消滅してしまいます。
住民の命と健康を第一に考えていたならば、当初に数十年をも通して住民の移住計画を策定しなければならないと考えるのが当たり前です。
被災地 に50年後100年後に農業を営む人が出てくるかも知れません。
その後世のために、私たちは全てに於いて原発事故、放射能公害を明らかにし、安心と安全のための施策を尽くすことが、今に生きる私たちの責務ではないでしょうか。
錆びた線路 JR常磐線
避難者の気持ちがわかりますか
高齢者は生まれ育った故郷に帰りたいのです。
だから帰れないと分かっていながら避難先での生活になじまない。
ある方はこう言います。
「避難先からの一時帰宅の日が迫ってくると頭痛、めまい、動悸が治る。
しかし避難先に戻るとなると 口数も少なく食欲すらなくなる。
この地で生きていかなければならないと思いつつ心苦しくなる。
避難解除されたとしても子供たちは正月やお盆でも帰って来ないだろう。
もちろん孫たちも来ない。
『自分は何のためにここにいるんだろう』と問い詰めてしまう」。
子どもを持つ親たちはいくら「大丈夫」と言われても20年30年後がどうなるか心配です。
放射能公害のデータがなく科学的な証明がないからでしょう。
ストレスが重なり子どもへの影響がないか心配されます。
京都大学・今中哲二先生たちによる 南相馬川房地区の放射能汚染調査報告
9月23日、居住制限地区の川房地区住民の要望に応え、今中さんはじめ国学院大、広島大などの専門家5人(飯舘村エコロジー研究会放射能汚染調査チーム)が調査をした。
ドローンや最新調査機器を使用し、地元の方が同行し、全戸72戸と主要道路、土壌サンプリングをおこなった。
サンプルは京大原子炉実験所で測定した。
各戸の測定は玄関、庭、母屋裏で地上1m。
平均値は玄関では0.81μSv毎時、庭では1.0μSv、母屋裏では1.3μSvだが、11戸では3か所のうちいずれかが2μSvをこえた。
母屋裏で4.6μSvという家もある。
汚染が大きく除染も困難な防風林が原因と 思われる。
除染されていない家は2μSv程度、除染されている家は0.6~1.0μSv程度なので、山を背にした家が少ない分、飯舘村と比べれば宅地の除染効果は若干良さそう。
しかし、土壌サンプルのセシウム137(半減期 30年)の数値は、川房地区の汚染レベルは飯舘村 (全村避難中)のそれに匹敵している。
調査報告書の「まとめ」にはこうある。
2012年7月の調査では「『南相馬にも汚染の強いところがあるんだな』というのが当時の印象だった。
今回調査の結果『川房は福島第一原発からの北西方向高レベル汚染ベルトの東端に位置し、地区全体が大きな汚染を蒙った』と認識を新たにした」。
以上が調査の概況です。
今中先生、遠藤暁先生、菅井益郎先生、市川克樹先生有難うございました。
今後、 避難解除にむけての対策をはじめ放射能と向き合って生きていくための参考になると思います。
今後もご指導宜しくお願いします。(國分富夫)
果樹園農家の秋は忙しさでてんてこ舞いでした。
収穫、直売所の対応、宅急便の発送。
更に台風などが来れば最悪です。
そんな時急に心臓がドキドキしたりする。
心臓に何か悪い病気があるのかと思い、近くの内科医院へ行きましたが、別にたいしたことは無かろうという診断でした。
いつの間にかドキドキが止まっていたような気がしております。
3.11以後避難生活が始まったのですが、同じようなドキドキが始まったのは、避難2年目頃からでした。
1週間に2~3回程度でしたが心配だったので、避難先の病院で検査したのですが心臓そのものには異常はないと言われておりました。
その後、市の人間ドック、県の健康診断など何回も検査は受けたが特別な異常は見つかりませんでした。
ところが、今年の春頃から、いつものドキドキが頻繁に起きる様になってきた。
時には急に発汗、ひどいときには震えがきます。
又、時々ですが、夜寝る際、足がほてって中々寝付けなく、布団から足を出して寝たりもしております。
この様に病状がいつまでたっても同じようで、しかも段々悪化しそうなのでこの事を4年間診ていただいた内科のお医者さんに相談すると、心療内科の診察を受けるよう勧められました。
新しく心療内科専門の医院に通院することになり2週間に1回通うことになりました。
先生の診断は、「パニック症候群」と診断されました。
この診断は今までどこの病院からも言われたことがありません。
現在(11月23日)も、突発的なドキドキ、そして発汗、寝る際の足のほてりは出ております。
また、心療内科からもらっている精神安定剤は、25ミリから50ミリと倍になり毎日服用しています。
それでもなお急にドキドキが止まらない時は「デパス剤」を飲んでいます。
いずれにしても長期間かかりそうな病気みたいです。
避難生活も間もなく5年になります。
何代も続いた農家も、私達の代で途切れてしまうのかと思うといたたまれない気持ちです。
■10月10~11にかけ、東京南部によるバスツアーが31人の参加で行われました。
今年3回目で、のべ100人近い皆さんが現地を視察し、避難者・被害者の生の声を聴いて、帰ってから事故の風化をさせぬよう事実をひろげてくれています。
前回に引き続き、参加者の感想文を紹介します。
私たちが遠くの地から見ているものはほんの一部であり表面的なものであって、現地の地ベタに足をつけなければわからない問題や課題はまだまだたくさんあるということです。
また、今回たまたま福島で起きたことに対して、もしかしたら自分にも起こりうるであろう事に対して「かわいそう」という気持ちは少し違うような気がしますし、
でも、実際に触れてみて感じたり気付いたりする行動と、それによって学んだ真実をしっかり発信して共通のものにしていくことが大事であることをあらためて教えられた2日間でした。
(高橋正幸)
居住禁止区域を視察して、4年7か月という時が立ったのに、震災後の壊れた家、牧場、電車の走っていない線路を見て、私が思っていた以上に、時の止まったままの場所があることを知りました。
また、放射線量の高いところが沢山あり、半減するまでに30年以上かかることを知り驚きました。
まだまだ復興に長い時間がかかることを知り驚きました。
私は東京に戻って、この視察で見て聞いたことをみんなに伝えていきたいと思います。
(匿名)
立派な家が残っているのに、草ぼうぼうの田畑で廃墟になっている光景に、びっくりさせられました。
除染のフレコンバックの山が積まれ、 行き場のない核のゴミに、東電と国に対して怒りがわきました。
希望の牧場の見学、「相双の会」のメンバーの報告など原発の犯罪性、核と人類 が共存できないことを確信しました。
蟻塚先生 の講演は非常にわかりやすく、またDTSP(遅れて発症した遅発性)の恐ろしさを知らされま した。
廃炉に向けたとりくみでは、若い研究者がいないと言われているが、放射線の研究や、地震・ 火山の研究者は、自衛隊を削減しても国費で養成すべきだと思います。
(清水英宏)
バスの中から町を見ていくうちに、4年7カ月も経過しているにもかかわらず何も変わらず、空家だけが何事もなかったようにあり、ただの自然災害だけだったら、原発さえなければ元の生活に戻れたのだと思う。
「福島は復興できた。原発はアンダーコントロールできている」と、オリンピックを、招致したこの国の首相には腹が立つ。
震災直後からずっと思っていたが、一度政治家(屋)は、現地に一カ月でも住んで、現地の人々の様子を知り対話して、そのうえで話をしろと言いたい。
東京に住む人達にも二日間で知りえたことは伝えなければならないと思った。
(張替洋子)
常磐道から見た帰還困難地区、フレコンバックの姿、胸が痛みます。
ここの地域で、どれだけの方が暮らし、生活を築いていらしたのか、それを原発が原因で、全て失ってしまった苦悩を考えると、悔しい思いになります。
小高区だけで 2,500戸が自分の家を手放す。
そこには苦渋の選択もあったと思い、各所に積まれたフレコンバックが、無言で何か訴えかけているようで、 ショックと腹立たしさで一杯になりました。
又、実際に現地の方々との交流の中で、色々な話を聞かせて頂き、福島に来て実際の光景と直面されている話から、現実に起きていることから目を背けてはならないと、実感しています。
胸につまる今回の衝撃を、きちんと声にして、こんな風に人生をくるわせる原発(国策)に対して、 絶対に許さず反対の訴えを続けていこうと、改めて自分自身に誓う機会となりました。
(石河史子)