原発事故被害者相双の会の会報131号が届きましたので転載します。

廃炉の入り口にも立てない
2011 年(平成 23 年)福島第一原発未曽有の事故でおきたメルトダウンは、冷却系統の故障により炉心の温度が異常に上昇し、核燃料が融解し圧力容器の底に溜まった状態です。
その状態がさらに悪化し、高温により圧力容器の底が 溶かされて燃料が容器の底を突きぬけることを メルトスルーといいます。
1986 年 4 月チェル ノブイリ原子力発電所事故はメルトスルーとなり 37 年過ぎても廃炉はおぼつきません。
福島第一原発事故でもメルトスルーの可能性は指摘されていますが、調査すらできないために、いまだによくわかっていません。
そして 12 年過ぎた今も廃炉の入れ口にもたてない状態です。

危険な原発を密集して稼働させてしまったこと。
それも国策として多額の税金を投入して進めてきたのです。
国としての責任は重大です。

汚染水海洋放出許されない
原発事故から 12 年、汚染水は溜まりにたまってタンクが一杯になったから海洋に放出するという無責任なことをやろうとしています。
生物学者や医学者の中には、がんや異常児の発生が増えることを懸念する人がたくさんいます。
これを何の心配もないとする御用学者の先生方は、福島第一の汚染水とトリチウムの絶対量の多さを隠すものです。
放出する前に千倍、万倍に希釈しようとも絶対量は不変です。
原子炉を覆う原子炉建屋は地震や原発事故によって壊れてそこから地下水や雨水が流れ込み、それらが燃料デブリにふれると放射性物質が溶け込む汚染水となります。
政府やメディアはこれを「処理水」と呼び、原発で発生した処理水は諸外国も海に放出していると強弁しています。
しかし通常の原発で発生する「処理水」とは全く条件が違います。
メルトダウンしメルトスルーの可能性もあるというところを通過して出てくるのが福島原発の汚染水なのです。
地下水や雨水が流れ込まない対策をしないかぎり汚染水はたまり続けます。
その万全な対策をやらないから増え続けるのです345億円の国費(税金)を投じて凍土壁(地中に凍ら土で壁を作り、周囲の土を凍らせる)を作りましたが、 凍土壁の寿命は7年ほどしか見込まれていません。
無責任にも程があります。

汚染水を海洋放出すれば半永久的に続けられることは明白です。許してはなりません。

福島大学・柴崎直明氏の提言
福島大学教授柴崎直明氏をお招きして「福島第一原発の汚染水はなぜ増え続けるのか」をテーマに勉強会をしてきました。
柴崎直明先生 は「福島第一原発地質・地下水問題団体研究グループ」の中心的な活動をされ、次のような提言をしています。

サブドレンの増強
雨水だけでなく地下水が汚染水のもとになっていることからすればこれ以上汚染水を増やさないことがきわめて重要である。
廃炉まで 100 年程度かかると想定し、中期的な対策として「サブドレンの増強」を提案されています。
(サブドレンとは、地下水をくみ上げるための立坑)

長期的な対策その1、
一つ目として「集水井」を提案されています。
(集水井は大型の井戸のこと)深さ 35~50mで、これを 10 ヶ所ほど設置し、さらに井戸の壁から横方向に、水の通しやすい地層に沿って水抜きのボーリングを行うこととしています。
集水井は全国の地滑り対策工事で豊富な実績があります。

長期的な対策その2、
「広域遮水壁」(地中連 続壁)を提案している。
総延長 3.7 ㎞、深度は 35~50m、凍土壁より規模は大きいが費用は半分程度であると言われています。

「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」
3月 20 仙台高裁第3回裁判期日での意見陳述
愛する津島のために私は新たな開拓民として生きる
紺野 宏

私・紺野宏 63 歳は、母 紺野禮子 88歳と裁判の原告となっています。
福島地方裁判所郡山支部一審に於いて、私は陳述書を提出し、現地進行協議の期日に津島の自宅を裁判官に見ていただきその後、裁判所で原告本人として証言も行いました。

証言では、200 年以上続く庭元としての伝統芸能である「田植え踊り」に若いころから関わってきたこと、2003 年に私が津島地区体育協会会長として企画した「津島ふれあい体育祭」、について主に意見陳述しました。
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誹謗中傷に耐え暮らす避難先
福島第一原発事故の翌年である 2012 年 4 月に大きな会場で「何があっても自分は津島に戻る」という決意を表明しました。
といっても、当時は消極的な理由でした。

50歳台後半になった自分が、新たな土地で人間関係を構築するのは難しいのではないか、また 80歳の母をそのような環境に置くことはできない、という理由からです。
全国に避難した津島の人からは、避難先で「税金どろぼう」などの心無い誹謗中傷を受けて生きた心地もしないまま、迫害に耐えてひっそりと暮らしているという話をたくさん聞いていました。
自分たち家族には、津島しか生きる場所がないのだと直感的に思っていました。

郡山市のアパートで避難生活を開始し、 職場に往復する日々が続きました。
便利ではありますが、メリハリのない毎日を送ってきました。

不便で厳しく忙しいけど、充実した津島での生活が脳裏には蘇りました。
春夏秋冬、季節の移り変わりを身体全体で感じることのできる津島の豊かな自然、地域行事を通じた地域の住民との交流、先祖代々から受け継がれる歴史と文化の重み。
津島の生活は、厳しい面もありましたが、「生きている」という実感のできる日々でした。

自宅改築を決意したものの…
築 200 年以上の津島の自宅を改築し、 避難解除になったあかつきには津島に必ず戻るという不退転の決意をしました。
しかし、これまで国の法律で居住が制限されていたため、改築工事に協力してくれる業者はありませんでした。

2018 年4月、ようやく居住していた地域が復興再生拠点区域に指定され除染が行われることになり、将来的な帰還の見通しが見えてきました。
それまでは、どこの建築業者に相談しても、「除染の目途が立たない限り工事は引き受けられない」と断られ続けていました。

2020 年 12 月、福島県の地元のボーリング業者にさく井工事を依頼しました。
また住友林業ホームテック(株)と自宅の改築に関する設計施工請負契約を締結し、自宅の改築工事を進めてきました。

工事の間、立ち入りの許可を浪江町に申請を行い毎週週末に郡山のアパートから津島の自宅に通いました。
現場監督や 大工、左官、電気工事業者などと工事の進捗状況の確認、施工の変更などの打ち合わせ、その後田畑の手入れ(保全管理)
の作業を行い、夕方まで津島で過ごしました。

思い出のある家
最近夢を見ます。
自分が突然死んでしまう夢です。
私には引き継ぐ子どもがいません。
こんなに苦労して津島の家を再生させても自分が死んだらどうなるのだろうか?夜中に寝汗をかいてはっと目が覚めます。
私には、妻と4人の兄弟姉妹(長姉、 弟、妹、次姉は平成 17 年に逝去)、8人 の甥・姪がいます。
津島に戻って住むことについて、兄弟 姉妹と甥・姪はたいへん喜んでくれています。

兄弟姉妹にとっては、生まれ育った家であり、甥・姪は子どもの頃、8月のお盆に帰省して、母屋の大広間に男部屋、女部屋に分けて、それぞれ 10 人ほどで雑魚寝をした楽しい思い出のある家です。
そんな家が残ることを親族はとても喜んでいます。
私が死んだあと、甥・姪をはじめとした子孫が、年に1回でも掃除に訪れてくれればよいと思っています。

戻るかどうか選択の決断を強制するな
今年5月までには、自宅に戻る予定です。
周りに誰も住んでいない家に戻ることに不安はないのか、と周囲からは言われますが、私は自分のこれからの津島での人生をポジティブに考えています。

戦後、津島には多くの大陸引き揚げ者が入植しました。
身体一つで津島にたどり着き、鍬一つで山を切り開いてきました。
その入植者たちの苦労に比べれば私 の背負う苦労は、100 分の1、1000 分の 1です。

入植者たちは、その苦労に耐え、豊かなコミュニティを築き上げました。

私は、新たな開拓者として、津島に戻ることを決意しました。
将来の津島において名もなき「ともしび」となれば本望です。
津島に蒔いた「ともしび」、種が後世につながり、いつしか再び活気にあふれたふるさと津島につながればよいと思っています。

2023 年2月5日に浪江町の復興拠点 の解除説明会があり参加しました。
復興 再生拠点区域の住民は、避難指示の解除から1年以内に家屋の解体を決断するかどうか、を迫られています。
既に8割の 住民は解体を申請していると聞いています。

住民は、ふる里津島の生活に戻りたい のです。しかし、様々な事情でそれはかないません。
国は津島に戻るかどうか、 その選択を強制するのは間違いです。
それでも戻るという決断をした人を全力で支援し、その決断を次の世代に引き継いで豊かなふるさと津島を保全していくことこそが、国や東京電力のやるべき ことではないでしょうか。
以上

是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。
◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分) kokubunpisu@gmail.com

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