原発事故被害者相双の会 会報126号が届きましたので転載いたします。
1 2022 年6月 17 日、最高裁判所は福島第一原発の放射能汚染事故の被害住民が起こした4つの裁判(生業訴訟、群馬訴訟、千葉訴訟、愛媛訴訟)について、国の東京電力に対する行政上の規制権限の不行使について、責任がないとする判決を下した。
首都東京も含め日本が消滅してもおかしくなかった大惨事の原発事故であった。
しかし、その悲劇は忘れ去られ、なかったものとして封印され、原発再稼働の議論がされているのである。
最高裁の判断は国への「忖度」判決と批判されても仕方ないものである。
2 最高裁裁判官の多数意見の判決理由は、たったの5頁(4500字前後)である。
東京電力が講じる防潮堤などの設置では事故は回避できなかったため、国の不作為と事故の結果との間には因果関係が認められないとして、国の責任を否定した。
これまで被害者(原告)が必死に主張してきた、予見可能性、法令の趣旨・目的、規制権限行使の在り方について何ら判断を示さず、結論ありきで因果関係のみを否定したものであり、判決の名に値しない。
他方、三浦守裁判官の小数意見は原子力安全規制法令の趣旨・目的を明らかにし「長期評価」の信頼性を認め、東電側にも防潮堤が設置されるべきこと、防潮堤の設置に合わせて主要建屋等の水密化(液体が外部に洩れない、または内部に液体が流入しない)の対策が求められ、これにより事故を避けられたとして、国の責任を認めるべきであるという意見を30 頁(2万 8000 字前後)にわたって述べており、その内容は、説得力のある内容である。
3 津島裁判は、一審で認めた国の規制権限不行使の責任を改めて問うとともに、重大な被害を引き起こす原発の設置を認めこれを積極的に推進してきた国の作為責任を問い、また原発推進政策という先行行為の結果発生したふる里剥奪の被害に対しその被害を除去し、元のふる里を復元する国と東京電力の責任を正面から問う裁判である。
原発は国策の失敗であり、それにより全てを奪われたままでいいのか、そのような国の「廃村・棄民」が免罪されていいのかが問われる裁判である。
4 津島原発訴訟「原告団」・「弁護団」は、仙台高裁において国と東電の責任を問う本件訴訟において勝利判決を獲得して、原状回復と被害救済を目指すとともに、再び原発事故を繰り返さないという全国民共通の利益の実現のために、全力で闘うことをここに表明し、国民の皆さんに理解とご支援を心から呼びかけるものである。
2022 年9月28日
その他の訴訟団も同じ思いで国民の命と健康、後世を守るために勝利するまで闘い抜く所存であることを表明されています。
2011 年3月 11 日の原発事故により浪江町津島地区(9,550ha、山手線の内側 1.5倍の面積、約 450 世帯・1,400 人)は高濃度の放射能汚染のため帰還困難区域となり、何時帰れるか目途も立たないまま 12年を迎える。
自然に溢れる環境の中、互いに協力して受け継がれてきた歴史や伝統、文化を大切に、地域に根付いた生活に楽しみを見いだし、生きがいを感じて暮らしてきた。
しかし、原発事故はこれらの一切を根こそぎ奪い去った。
この不条理な事態に、身の震える憤りとふる里への痛切な思いを胸に、異郷で避難生活を送らせざるを得ない状況にある。
※避難・転居回数は5~6回にのぼる。
避難先の状況は県内外にバラバラとなっている。
※事故後の死亡者は200人超。
埋葬が困難のため菩提寺別院に遺骨約100 柱が仮安置されている。
※廃村・棄民=地図から消されかねない危機感から「映像で残す会」が有志でドローン空撮をした
※家屋には野生動物などが入り込み、足の踏み場もないほど荒廃。
そのため断腸の思いで解体せざるをえない。
訴えの趣旨は、
①現状回復=ふる里を返せと確認及び給付請求
②損害賠償= 避難・被ばく慰謝料
津島訴訟控訴・仙台高裁第1回口頭弁論での原告 武藤晴男さんの意見陳述
2022 年9月28日
毎年3・ 11 になると、10 年以上過ぎた今でも避難で味わった辛い想いが鮮明によみがえります。
2021 年3月、メディアの取材が津島の自宅にきて「あなたにとってふる里は」と唐突に聞かれました。
私は不意に「なんだそれ、直球かよ、」って思ってしまいました。
とっさに出た言葉は「俺にとってふる里はここにあって当然だ」でした。
私の津島での生活は決して裕福とは言えず苦労が多く波乱に満ちていたと思います。
私が生まれた前の年と次の年に火災に遭ったそうです。
生活基盤の一切を無くし家族は相当に苦労したと、親類から聞かされました。
津島の子供たちは学校から帰るとうちの手伝いするのが当たり前でした。
そんな津島の風土が当時は好きではありませんでした。
18 歳になったときに都会に出ました。
自分の力で生きていく経験をしたかったから。
しかし、年を追うごとに、津島に残っている友達や親が恋しく都会での生活をやめ、津島に帰る事にしました。
戻ってきて先輩、同僚、仲間たちに支えられ、新しい家族にも恵まれて 30 年間頑張りました。
「俺にとってふる里はここにあって当然」と、自然に言葉が出てしまったのです。
次に言われた質問は「誰が、何がこうさせたのですか」でした。
メディアの方たちが悪いわけではないと分かっていますが、津島や原発事故の事を問いかけられれば、何もできない自分に対して怒りが沸き上がります。
この無念さ、悔しさの憤りを東電、国は他人事だと思わずしっかり受け止めてほしい。
東電、国の「原発は安全」という言葉を30 年以上信じてきた結果、見事に裏切られた。
東電と国は事故を起こした責任がある。
津島の生活と大切な人を奪い去っておいて知りませんでは酷いです。
賠償は充分にしたのだから我が社の責任は終わったと言い続ける事に怒りがあります。
事故当時両親と妻、長男の5人で普通に生活していました。
南相馬市には、嫁いだ長女と孫もいました。
避難の朝、津島から離れることを嫌がった父に、「必ず帰ってくる」と約束して自宅を後にしましたが、父は過酷な避難生活でふる里に戻れないまま3年後に亡くなり、母はその2年後に亡くなりました。
津島の様子を見に行くと言うと、何度か妻と長男夫婦は一人では心配だから付いてきましたが、避難2年後頃からは自宅の中までは入らなくなりました。
動物に荒らされた惨状を受け入れたくないからだと思われます。
娘は実情を聞いていたのか生まれ育った家でも見たくないと言っていました。
確かに苦労の多かった津島の生活でありましたが、健康であれば生まれ育った津島で残りの人生を送りたい。
最後に愛しいふる里、家は今でも藪の中にひっそりと佇んでいます。どうぞ見に来て下さい。
そして希望の持てる判断をしてください。
岩波書店、科学 2021 年 NO6 に京都大の今中哲二先生の「放射能汚染について」掲載されていた事を思い出し再度読みました。
2011 年から 2012 年にかけて文科省が実施した全国航空機サーベイデータにもとづいて作成した1万㏃/㎡を超える面積は 2.5 万㎢と本州(約 2.8 万㎢)の1割に達した。
放射性物質を取り扱う際に、それ以上の面積汚染の恐れがあると放射線管理区域にすべきと法令で定められている基準である。
4万㏃/㎡の汚染面積は約 7600 ㎢と東京都(2200 ㎢)の約3.5 倍、また、1986年のチェルノブイリ原発事故から数年後、広汎なセシウム 137 汚染の存在が明らかとなり、住民を移住させる基準としてソ連末期に定められた 55 万㏃/㎡を福島県に当てはめると約490 ㎢となる。
セシウム 137 は 2012 年~2013 年に東京を訪問した際に折に触れて土壌サンプルした私のデータでは東京都心部の汚染は 5000~1万㏃/㎡程度だった。
放射性セシウムは粘土鉱物に吸着されて表面土壌に長く保持され、セシウム 137 半減期は 30 年と長いので、セシウム137 汚染に私たちはこれから 50 年、100 年、福島県の汚染の強いところでは数百年に渡って付き合う事になる。
次回は「放射能汚染との向き合い方」を掲載します。