原発被害者相双の会 会報119号が届きましたので、転載いたします。

原発事故から 11 年。3月7日、最高裁第三小法廷は東電の上告を棄却し 2012 年 12月 3 日に福島地方裁判所いわき支部へ提訴した私ども「原発事故避難者訴訟」第一陣の仙台高裁判決(2020 年3月⒓日)が確定しました。
高裁判決は賠償があまりにも低額で不満でしたが、東電の謝罪責任が高裁で明確に断罪されたことを重視し上告しないと決めた。

一方東電は謝罪責任を不満として上告していました。
国の責任については4月に国と住民側双方の主張を聞く弁論を踏まえて統一的な判断を示す見通しです。

第一陣の後も二陣三陣と提訴が続き、今年(2022 年)3月 11 日に4陣が提訴しました。
居住地域は、南相馬市、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町、川内村。
後続訴訟は、加えて川俣町山木屋地区、葛尾村、田村市都路地区などを含み、相双地域全般に及ぶ総勢約 1000 人となります。

この間、各裁判において東電は「原賠法 (原子力損害賠償法)の無過失責任があるから過失はないが賠償している」、国は「原発を推進してきた社会的責任はあるが法律的責任はない」と主張してきました。
このような事がまかり通る社会なら「無法国家」「独裁国家」そのものです。
だからこそ弱い立場の原告が立ち上がり、司法へ委ねてきたわけです。

提訴してから10 年、まさかこれまで長い年月がかかるとは思いもしませんでした。

結果を待たずして亡くなられた方、ストレスからの長期入院を余儀なくされた方々が多くいます。

被害者である私たちには事故に対し何の落ち度もありませんから当然の事です。
けど当然のことが認められるために、これだけの苦労が強いられたのです。

これからは、全国の1 万人以上に上る各種訴訟団と連携し、東電と国に誠実な謝罪と損害賠償の実行、原陪審「損賠指針」の見直し、さらには被害者救済の抜本的な政策を求めていきます。
引き続きのご支援、よろしくお願いします。

2022年3月23日東京地方裁判所
飯舘村原発被害者訴訟」第3回口頭弁論意見陳述

意見陳述者 伊藤延由

1.東京電力福島第一原発事故前の飯舘村

…前略… 2010 年に飯舘村に移り住んで、農業研修所の管理人をしつつ、農作業に従事した。
除草剤を使わない米作りは、死ぬほど大変な作業だった。

だが、孫たちに送ってあげる米は、研修所を運営する会社の好意で市販価格の半額程で購入することができ、何より安心して食べさせてやれた。
たった一年間だったが、私の夢は叶ったと思っていた。

そして、私が出会った村人は心豊かで、食卓には山の恵みがふんだんに盛られ、非常に豊かだった。
現金収入の面では、飯舘村は福島県内でも下位に位置する貧しい村とされるが、村での暮らしは貨幣価値では計れない豊かなものだった。

しかし、私の夢が実現しかけた矢先に、夢は、原発事故で打ち砕かれた。
その失ったものの大きさに、今も打ちひしがれている。

2.原発事故で一変した村の状況

2011 年3月 11 日以降の原発事故で、それまで原発とはほぼ無縁だった村の様相は一変した。

東日本大震災の地震による被害は軽微で、倒壊家屋も津波被害もゼロです。
海に面し、福島第一原発にも比較的近い南相馬市や浪江町などから避難してきた住民に、温かい食事や毛布を提供する側だった。

飯舘村は原発からおおむね30 キロ圏外にあり、急きょ3月14 日高齢者施設の敷地内に設置されたモニタリングポストで計測された放射線量も 0.09μSv/hと通常の値を少し上回る値だった。

ところが、3月15 日、雨が降り続く中、夕方になって急激に放射線量が上昇、午後6時には 44.7µ㏜/h と事故前の約千倍にまで跳ね上がった。
当時、私たち住民には、その重要な事実は知らされず、何ら防護もしていなかった。
後に知ったところでは、村の放射線量は上記のモニタリングポストの値よりもっと高い地点が多かったと聞く。

当時取材に来たジャーナリストの線量計(測定可能の最大値は100μSv/h)があちらこちらで振り切っていたほか、専門家による事後の現地調査でも村南部の長泥地区では 200~300μSv/h(15 日当時に逆算して推定)あったとされている。

私も5月になって線量計を所有し、住んでいた小宮字野手神地区で計ったことがある。
3月 15 日に比べると、短期核種の消滅により線量は 13 分の1以下に下がったはずだが、それでも6μSv/hあった。

3.大地に沈着した汚染

村で急上昇した放射線量は、福島第一原発から放出された膨大な放射性物質が風にのって北西に向かい、3月15 日に降り続いた雨と雪によって地表に落ちたことによるこの事実は、半減期が2年と比較的短い放射性セシウム 134 が明瞭に検出されたことからも明らかである。
旧ソ連のチェルノブイリ原発事故や過去の原爆実験などによるものであれば、セシウム 134 が検出されることはない。

村内に降り、土や腐葉土に沈着した放射性物質は、除去しない限り、その場所にとどまる。
植物は、土中の放射性セシウムをカリウムなど栄養素と取り違えて吸収する。

放射性セシウムは表土5センチほどに大半がとどまっているため、事故後に実施された除染により、農地については大幅に濃度が低減された。

また、カリウムや鉱物のゼオライトを散布することにより、農作物にセシウムが移行するリスクが下げられていることも確かだ。
しかし、今も大問題であり続けているのは、村面積の約7割以上を占める山林であり、その山林は全くの手つかず状態のまま放置されていることである。

数々の山菜やキノコ、ジビエ、農地にすき込む落ち葉、材木のため丹精してきた針葉樹、厳しい冬を乗り切るための薪…。
山の恵みとともに生きてきた村民にとって、山林の汚染が放置されていることは、原発事故による被害が今後も続くことを意味する。

現在、土中から検出される放射性物質は、ほぼ放射性セシウム137と言えるが、この物質は半減期が約 30 年と長い。
このため、事故前の水準まで戻るのにおよそ 300 年の歳月を要する。
そのときまで、村は福島第一原発由来の放射能被害に苦しめられる。

4.汚染がもたらし続けるリスク

…前略… 私の出身地である新潟県でも、放射性セシウムは若干検出されるが、新潟県上越市 (柏崎刈羽原発から約 30 キロ程度) の土壌で8㏃/kg、東京電力柏崎刈羽原発敷地内にあるモニタリングポスト近くの土壌は11、22 ㏃/kg だった。

これに対し、飯舘村の場合は、除染済みの土壌でも 700~1万㏃/kg(村の面積の16%)あり、除染されていない場所の土壌になると、2万~10 万㏃/kg(村の面積の84%)に達する。

上越市と比べ、ざっと1万倍の汚染度合いである。

放射線についてはどうか。原発事故の影響がない地域でも、太陽や天然鉱物からの放射線はあり、若干の地域差はあるが、おおむね0.05μSv/h程度である。
年間にすると0.4mSv程度の被ばくはする。

しかし、自分で線量を計測しているが、私自身の実測値で私が村外へ移動した時間も含めた年間被ばく線量(2021 年)は1.56mSvの被ばくである。
私が村外へ移動したことを考慮せずに、村内にいた時だけの値を年換算して推計計算すると、2mSv近くの被ばくになる。
確かに、年月とともに少しずつ下がってきたが、法律で定められている一般人の年間被ばく線量限度(1mSv)を超過しているのは紛れもない事実だ。

医療被ばくには患部の状況を的確に知るメリット、航空機移動には時間を短縮するメリットがある。
これに対し、飯舘村での被ばくは、24 時間 365 日続くが、この被ばくに何のメリットもない。

事故後、学際検討委員会なる団体が村民に配った冊子には、被ばくのリスクについて「この危険を具体的に言えば、100 ミリシーベルトの被ばくによりがんで亡くなる確率が0.5%上乗せされる」とある。
では、100mSvを超えないと、本当に健康被害が出る可能性はないのか?
ノーと言わざるを得ない。
被ばくのリスクで労災認定される白血病発症の被ばく量は年間5mSv、最近は甲状腺がん発症も労災認定もされている。

被告で加害企業である東京電力は、避難に伴う経費増や精神的損害に対する賠償はある程度は実施したが、厳然と存在し今後も続く被ばくリスクにしては何らの賠償もしていない。

5.汚染が奪った自然の恵み

…前略… 私が暮らす地域の主要な山菜であるワラビやゼンマイ、コシアブラについては、現在でも基準値の少なくとも数倍の放射性セシウムが今も検出される。

キノコにいたっては、ごく一部を除いて基準値の数十倍はあり、とうてい食用にはならない。
寒冷地の飯舘村では、冬は薪が重要な熱源となる。
切り出して運び、割る手間はあるものの、薪は村内に豊富にあり、お金はかからない。
残った灰は田畑に養分として還元してきた。
化石燃料を燃やす必要もない。

しかし原発事故後、村からは村内産の薪は燃やすなと告知されている。
燃やすと薪に含まれる放射性セシウムが約 100 倍に濃縮され、灰が処分できなくなるとの理由からだ。
そのため、私は、被告企業に薪代を請求したが、被告企業は「日常生活で生じる負担増」にすぎないとして支払いを拒んだ。
村外から薪を購入すれば、年間 20~30 万円もかかってしまう。
この負担を、原発事故の被害者である我々が負担しなければならない理由はどこにもない。

6.村の将来への被害

被ばくの感受性は個々千差万別であるが、 特に若年者は感受性が高いと言われている。
飯舘村は、「子供たちのはしゃぐ声こだます地域づくり」を目指す村だった。

2022 年 1 月現在、村に帰還した人口はわずか 1,233 名であり、その75%が60 才以上で占められている。
原発事故前は、3世代10人というような世帯も多かったが、現在は平均世帯人数が2人を下回っており、老夫婦のみが暮らす村へと一変させてしまった。
若い世代が安心して村に帰ってくる、あるいは帰ってこられる状況にはこない。

原発事故は村の将来をも危険にさらした。

7.終わりに

原発事故による被告加害企業の対応で、最も納得できないのが、加害者であるにもかかわらず、一方的に損害賠償の条件を決め、一方的に査定し、それに合致しない限り支払わないとの姿勢だ。

「避難生活等による精神的損害」の名目で、避難期間中の 7 年間、月々10 万円が支払われたが、避難生活により発生した経費増で多くが消えた。
その点は被告加害企業も認めているところだ。

だが、この支払いには、原発事故後、これまで負わされてきた、将来も負わされ続ける被ばくのリスクについては含まれていない。
奪われた自然の恵みも含まれていない。
金銭には換算しがたい大切な人とのつながり、コミュニティを奪われたことへの償いも含まれていない。

もう一度申し上げます。

私に何か過失がありましたか?

豊かな自然の中での暮らしを壊したのは誰ですか?

元に戻るのですか?

安心して暮らす権利を主張するのは過大な要求ですか?

以上

是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。匿名でも結構です。
◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分) kokubunpisu@gmail.com

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