原発事故被害者相双の会 会報118号が届きましたので転載します。
原発事故から 間もなく 11 年
国は「復興」「復興」と叫びまくっているが、事故前の生活に戻れるような地域コミニテイ、家族が寄り添いながら生活できるような環境になっているのか。
あの時 10 歳だった子供がもう社会人となり被災地である自分のふる里は殆ど記憶がなく、避難先が思い出のふる里になっている。
70 歳の方は 80 歳 も過ぎ戻りたくも戻れない。
毎日のようにふる里の生活が忘れられず、我慢できずにふる里の家をリホームし戻ってきたが、周りの環境は変わってしまい友人知人もいない。
まして夜となれば寂しく涙がこぼれる。
原発が憎い
原発は地域を活性化して生活が豊かになると言う事であった。
町村の庁舎はホテルのような建物であり、すべて電力会社が提供する。
しかし、一旦事故が起きれば廃墟のまちとなる。
それどころでない放射能から逃げ回らなければならない。
そして被害は限りなく続く、今に生きる私たちばかりでなく次の世代、またその次の世代も続くことが明らかなのです。
「放射能なんて恐くない」「原発事故から 11 年にもなるのだから諦めろ」と言わんば かりの国や自治体の対応になってきている。
国が小児甲状腺がんを否定するのは何故
小児甲状腺がん 100 万人に一人か二人と言われている。
原発事故時点で福島県の 18 歳未満の子どもは約 385,000 人。
甲状腺がんの診察を受けたのは約 30 万人と言われている。
その中で 275 人が発症していることからすれば 1,090 人に一人が癌にかかっていることになる。
甲状腺がんの真の理由は、被曝、放射性物 質の影響しか考えられないが、国や福島県、 東電が、頑として否定するのなら九州の子供たち、北海道の子供たちを検査して発症数を明らかにすれば被ばくの影響であることが明らかになるでしょう。
それも実施しないで「検査精度が向上により今まで見つからなかったものが見つかったから」という。
多くの子どもたちが甲状腺がんで苦しんでいる事実を否定している。
38 万5千人の内 275 人発症し、うち 222 人が甲状腺摘出手術を受けた。
それからすれば 7 割以上手術が必要だったのである。
小児甲状腺だけではなく原発事故時の大人の甲状腺がんも検査する必要がある。
転移はしないと言うが現に転移している実例がある。
さらに甲状腺がんの多くは手術後に長い通院期間が必要になる。
再発・転移が起きやすいのか心配が募る。
原発を国策として多額の税金を使い進めてきた結果、未曽有の事故を起こした責任は重大である。
「子供は国の宝だ」「国民あっての国である」と言うなら命と健康を第一に考え充実した検査機能を活用するべきだろう。
曾祖父の時代から酪農家であると聞いていますが私は祖父の時代からしか覚えがない。
祖父から聞かされたのは牛一頭で子供の成長と教育が出来たそうです。
もちろんその時代は農業機械もなく労力は牛馬と人力そのものでありますから 大 変 な 時 代 であったと思います。
私は4代の酪農家として父親から引き継ぎ守っていかなければならないと孤軍奮闘し牧草地を増やし、 震災当時には 182 頭の牛を飼っていました。
家族の労働を軽減しなければ体がもたない ことから効率化させなければならないと思い、それに向かって牛舎を増やし農業機械を大型化しコンピューターを導入してきました。
その分借金もしましたが家族の力を得て軌道に乗り始め家族の労 力も軽減され、父は釣り船に乗るのが唯一の楽しみで季節によってはアイナメ、タイ、ヒラメ、メバル等々楽し気に自慢話をしていました。
母は農家生まれではなかったが家族思いが強く朝から晩まで働いていました。
妻は子牛扱いと子供たちの世話をしていました。
そんな時、原発事故が起き強制避難となり、 自分は牛を守るために残り続けようと思ったが集乳所は閉鎖され貴重な牛乳は捨てるほかありません。
それに搾乳しないと乳量の減少、乳房炎、敗血症など致命的な結果となります。それでも家族のこともあり転々と避難し避難先から牛舎へ見回りにきましたが、 牛はやせ細り次々と餓死していきました。
後ろ髪を引かれる思いで会津地方の喜多方市へ避難してからは許可をもらわないと入れないこともあり、牛舎へ見回りにも行けなく一ケ月後に行ったとき牛は牛舎でつながれたまま飢えて死んでいました。
精魂込めて育てそれに答えてくれた牛たちに申し訳 なく写真を撮る気力もなく朦朧とし立ちすくむだけでありました。
後に酪農家の話では「豚が牛を食べていた」 などを聞かされました。
政府はそうして死んだ大量の牛を、牧草地 などに埋却する方針を打ち出しました。
無我夢中でやってきた 11 年
2016 年7月 12 日に避難解除されこれからどうしようと考えました。
豊かな自然と 共に先代から引き継いだ農地を活かし酪農を続けたいが放射能のこともあり今のところ、無理かなと考え当座の生活もありますから広大な牧草地を生かし 2015 年からトウモロコシでバイオマス発電のための資源作物の栽培を始めました。
しかし企業化を断念、翌年もう一度小高の地に緑を戻そうと思い再起をかけ牛の飼料としてのトウモロコシ栽培を始めました。
しかし 放射能の風評もあり買ってくれるお客さんが見つかりませんでした。
震災後懸命にデータの蓄積、データ公表を繰り返した結果、徐々に買って頂けるお客様が出てきました。
ここの地が安全な地であることを証明するため羊を飼い放牧し出荷しようと思いましたが、放牧は認められませんでした。
理由は放射能汚染されている事でありました。
そ れでも何時かは認められるだろうと、いずれは酪農を再開できることを願って屋内で 50 頭の羊を飼っています。
酪農が再開されるこ とに期待しながら奮闘しています。
ようやく父母たちは帰ってくる
父母たちは喜多方市に残り祖母の介護をしながら野菜づくりをしていましたが、昨年4月21日に祖母はふる里へも帰れず 94 歳で亡くなりました。
父母たちも思い出の深いふる里へ帰る事を決意し現在小高区へ新居を新築中であります。
5月頃には帰ってきます。
これからは朝晩父母の顔を見て安心して仕事に精を出す事ができます。
原発事故がなかったら平穏で家族が離ればなれにならず地域コ ミ ュ ニティも大事にされていたと思います。
事故前の隣近所は殆ど帰ってこない。
それにストレスで亡くなる方も多い現状です。
寂しい限りです。
原発事故時は6歳、1歳、それに妻はお腹に子供を宿していました。
今では 16歳、12歳、10歳となり元気にすくすくと成長しています。
何より一番悲しいことは、大変お世話に なった方々が避難先で亡くなったことも知らず最後のお別れも出来なかったことです。
産まれてくる子にはまた会えるが、亡くなった方にはもう会えない。
申し訳なく心が痛む。
原発事故がなかったらこんな思いもしなかった。
「原発は最新の技術で作られているから安心」「放射能は自然界にもある」などがまかり通っていました。
だったら何故強制避難なのだと憤りを覚えます。
最後に私は小高の自然が大好きだ。
相馬家の酪農家4代目に生まれたことに感謝しています。
何時かは必ず原発事故前の自然を取り戻したい。
福島県の津波や地震による直接死は 1,605 人、その後の震災関連死は 2,331 人です。
特に重視しているのは関連死 2,331 人には、福島第一原発事故による強制避難指示の地域が最も多いことです。
主な自治体の関連死は南相馬市 520 人、富岡町454 人、浪江町 441 人です。
原因は避難生活によるストレス、生活習慣の大きな変化などが原因ではないかと思います。
もう事故から 11 年ですから働き盛りの方々は安心・安全を重要視しふる里を離れ家族を守っていかなければならない。
事故時には 55 歳の方は 66 歳となり高齢者の仲間入りです。
ふる里を忘れられず帰っても懐かしい知人友人・親族もいない。
「なんで‥‥‥懐かしい環境は消えてしまったのだろう」などと話しあっています。