12月29日(木)原発事故被害者「相双の会」会報56号が届きましたので、転載します。

昨年中はみんなで力を合わせ、がんばってきました。おたがいに「ありがとう」と言い合いたいものです。
しかし碌な年明けにはなりませんでした。
経済産業省は福島第一原発廃炉費用を2兆円から4倍に当たる8兆2千億円に拡大と試算、除染、賠償費用も増え事故処理費用総額21兆5千億円となる見通し。
政府は負担により東電の経営危機を避けるとして「廃炉の加速」という詭弁で年数百億円を電気料金に上乗せし東電を支援するようだ。
国民の家計の負担が一段と重くなる一方、中間貯蔵分は税金で賄うため丸々国民の負担です。
そしてもんじゅの廃炉に莫大な税金を投入しながら、核燃サイクル開発は追い続けるといいます。
国策だから国民の命を奪う、財産を奪うという政治を許してはなりません。
被害者がなぜ加害者=死のどん底まで陥れた犯人の面倒を見なければならないのか。
全ての責任を取ってから納得できる案を出すべきでしょう。
原発避難者訴訟も今年は結審します。
声を上げ続け、今年こそみんなで喜び合える年にしましょう。

 

御礼 「相双の会」へ多大なる寄付
埼玉の水村芳子様より夫水村伸平様の「遺作展」収益金を「相双の会」へご寄付いただきました。
厚く御礼申し上げます。
故・水村伸平は私鉄東武労組から国会議員秘書など経験し、晩年は土と交わり、陶芸に心血を注ぎました。
作品には多くのファンに喜ばれました。
一周忌が過ぎ、遺作展がひらかれました。
その収益金を「相双の会」へカンパしていただきました。
私たちは伸平さんの遺志を継ぎ原発のない社会を目指していきます。
カンパ金は大事に活動資金に使わせていただきます。
有り難うございました。
会長・國分 富夫

原発避難者訴訟第20回口頭弁論
2016年12月21日
今年秋結審、翌18年春に判決をめざす

福島地裁いわき支部で、二つの法廷を使用し、満席の傍聴者の中、9人の原告が朝10時~4時まで訴えた。
原告側はスピードアップを求め、二つの法廷で終日審理をしている。
今年(17年)6月に原告最終弁論、9~10月結審の予定で、来春(18年)判決をめざす。
また新たに訴訟をおこす仲間と第2陣も多数いて、その裁判も並行して開始される。
以下、三人の原告の訴えの一部を報告します。

Kさん(南相馬小高区)
生徒も大変な思い、自宅取り壊しの喪失感
3月12日の午後に原発から遠い所へと夢中で逃げた。
生後2ヶ月弱になる長男がいたので大変だった。
会津に落ち着いた。
勤務先の南相馬の小学校の再開は4月22日。
翌年3月末の転勤まで、週末ごとに4時間~ 5 時間かけ会津に避難している家族のもとへ通った。
学校再開には十分な除染がされたとは思えない。
教師や父兄有志が一部の除染作業していた。
道路を洗い流した水は処理せず流していた。
不安だったが、当時再開ありきの状況で、口に出せる雰囲気ではなかった。
もどってくる児童の数は、低学年ほど少なかった。
6年生でも半分くらいだった。
屋外授業は一切ない。
屋外に出る時、登下校時は必ず長袖、長ズボン、マスク、帽子着用。
それが 10 月 17 日まで続いた。
妻も教員で、担任していた子が避難の転校先の学校になじめないので、電話で「無理しないでもいいからね」「みんな辛いんだから」と元気づけていた。
妻の両親は必ず線量を計ってから家庭菜園の野菜を持ってくる。
妻は野菜、魚介類 は福島県産のものは避けている。
相馬に越してきたが父の車は寿命なので買い換えようと思っているようだが、新車を買う事をためらっている。
避難者のくせに車を買ったなどと近所とマサツがないよう心を使うから。
この裁判への参加は職場では話していない。
「裁判は国民の権利」とは承知しているが、「まだ金がほしいのか」などつまらない誤解を生ずる惧れがあるから。
小高の懐かしい家は去年秋に取り壊されたが、「さようなら」と畳に寄せ書きしたのを見て、自分の中にある故郷、ご近所との生活を全て失い、心の中に穴のあいたような感じだ。
元の小高を、自分の思い描いていた未来を返してほしい。

 

Sさん(南相馬小高区)
避難者差別で、誇りに思う故郷が口に出来ない
住んでいたところは自然豊かなところだった。
果物、山菜、シイタケなど 10 種類以上、野菜 20 種類、鶏 40 羽、鴨、雉など。
野菜は有機農法を近所の人と講師を呼んで勉強し、5~6 年目にやっとおいしくなり虫 もつかなくなった時、原発事故になった。
今土地は枯れ、猿やイノシシに荒らされ、鳥は獣に食われた。

除染しても安全とは言い切れないので菜園を再開する気はない。
草が生えないよう畑には砂利をまいた。
事故前は家族がよく集まったが、ばらばらに避難して孫とも年 1 回会うのがやっと。
野馬追や花火祭りには隣近所 30 人も集まってバーベキューをした。
友人たちもバラバラで会うのは葬式のときだけ。
工場の閉鎖で仕事も失った。
探しているが年齢制限で見つからない。
シルバー人材センターに登録している。
小さい子がいる娘は山梨へ、息子二人は越谷に避難。長男はうつ病に、次男は避難中に連れ合いの実家とまずくなってストレスで荒れてしまった。
妻はストレスから血糖値が上がった。
今の避難先(茨城県)で、南相馬から来たとは言えない。福島ナンバーの車も水戸ナンバーにかえる。
お金を持っていると、嫌がらせを受けるのが怖い。
息子は越谷で車を汚いと言われ、娘は車にガムをつけられた。
自分が誇りに思っている故郷の話ができないのが辛い。
小高に帰らない。
子どもたちはみな帰らないから、親戚も友達もいない。
店もなく不便。
除染のトラックが行き来して落ち着かないし、夜は野生動物が出て怖い。

 

Kさん(双葉)
この苦しみ、命を断てば認めてくれるのか
事故前から一番変わったのは仲良かった夫婦・親子が喧嘩するようになったこと。
主人は怒りっぽくなり帰宅するのが怖い。
3か月くらい出勤しなくなり、真っ暗な部屋で黙り込んでいた。
「あと生きても5年だな」「俺もつらいんだよ」という。
子供を傷つけるようなことをいうので、同居する計画もなくなった。
家族思いなだけに自分が家族を傷つけてることで悩んで、また思いつめる。
友達とも会えなくなった。
連絡取れていたたった一人の友達から、「助けて」「死にたい」とショートメールがはいる。
避難先の仕事で避難者いじめにあい何回もリストカットしてる。
話聞いてあげないとこの人死んじゃうなと思っていつも聞いてあげる。
高校 3 年だった娘は希望の仕事に内定したのに、事故で採用取り消しされ、外に出なくなり夏でも白い顔。
昼夜逆転の生活になった。
自分も避難先で双葉出身と言えない。「避難者は働かなくていい」と言われたり、近所に配った引っ越し挨拶品が翌日玄関にもどされたりで避難先で心から話せる友人ができなくて辛い。
どうかこの現状を分かってほしい。
命を断てば認めてもらえるのですか。
故郷にかえりたいです!

原発避難者訴訟第21回口頭弁論
◆17年2月22日(水)10時~17時 福島地裁いわき支部
◆二つの法廷で、10人が原告本人が尋問に立ちます。

『原発に抗う』
本田雅和著

「朝日新聞」南相馬支局長の本田雅和さんが、私たちの声を本にしてくれました。
本田さんは南相馬に暮に暮らしています。
ご本人の了解を得て、同書の「プロローグ フクシマで暮らす私から 3・11後を生きるあなたへ」から抜粋を紹介します。

 

私は全国で唯一、財政破綻した自治体である北海道・夕張市の駐在記者として、「石炭から石油へ」の国のエネルギー政策の転換、地方切り捨ての国策を批判してきた。

原発事故直後から、北海道にもフクシマからの避難者や移住者が続々と来るようになっていた。
そんな彼ら彼女らと親しくなり、話を聞くにつれ、フクシマに残してきた高齢者の家族や、フクシマに残らざるを得なかった人々に対する彼らの「罪の意識」にふれ、
なぜ避難者であり、被害者である彼らがさらに苦しまねばならないのか、と憤りを感じた。
そして、私自身が一日も早くフクシマに行き、フクシマに残る選択をした人たちと生活や思いを共有したい、と考えるようになった。
3・11から一年後、私は福島市に赴任し、二年後の秋に原発の北二十五キロの南相馬支局長になった。
四年目に入って小児甲状腺がんの顕著な増加が見られるようになり、五年目には「放射線の影響とは考えにくい」と言い続ける学者でさえ、
「がんの罹患統計から推定される有病数に比べて数十倍のオーダーで多い甲状腺がんが発見されている」(福島県民健康調査検討委員会の中間取りまとめ二〇一六年三月)と認めるようになった。
…「甲状腺検査をすれば、がんがたくさん見つかって県民が不安になるから、検査を縮小しよう」と一部の小児科医らから、 まじめに議論されていることに、正直驚愕する。
「こわい数字は見ないことにしよう」 ということか。
その背景には、医学界というところに、「民衆に不安と混乱を与える情報は隠しておこう」とするパターナリズムがまだまだ跋扈しているという事実がある。
…すべて、フクシマとの関係性の中で苦しみ、もがき、悩みながら生き続ける人々の話だ。
原発事故から六年目のいま一度手に取り、改めてお読みいただければ、筆者としてはこのうえない幸甚であるし、ジャーナリストとしての私の視点については、 ご批判を請うばかりであります。

 

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