3月1日(火)原発事故被害者「相双の会」会報46号が届きましたので、転載します。

国の「避難指示」は信用できず―南相馬市 など独自の避難計画
2月20日朝日新聞の1面トップに大きく「国の指示待たずに原発避難」の見出しが出ました。
国が定める原発事故時の「避難計画」指針では、事故が起きたら「5キロ圏はすぐ避難」だが「5~30キロ圏は屋内避難」させ、そして毎時500μSvに達したら数時間以内に、毎時20μSvが1日以上続いたら1週間以内に避難させるというのです。
この指針ではやっていけないと、多くが30キロ圏内の福島県南相馬市と浪江町が国の指示を待たずに避難する独自計画をたてたという記事です。

何の反省もない国

福島の被害者にとっては当然です。
国の情報や指示など誰も信用できません。
3.11の原発事故時を思い出すと、国からの指示が何も来ませんでした。
何処へ避難すれば良いのかも分からない。
事故が分からないまま数日留まっていた人、避難した先が線量がもっとも高い地域だったりした人も 数万人を下らないでしょう。
何故国はあの時、正確な放射線量を住民に周知しなかったのか、すぐに避難指示を出さなかったのか。

事故の後にあわてて作成した国の「避難指針」では、原発により近い住民を早く逃がすため交通渋滞を防ぐためには「5~30キロ圏内は避難せず自宅にいなさい」と言う。
しかし、大事故となると20kmや30km圏も、ほとんど大差がありませんでした。
風向きや風速によっては、何十キロも離れた地点が、原発構内と同じくらいの高濃度の放射能に襲われました。
地域住民は安全神話の中でどんなことがあっても「大丈夫」とだまされてきました。
東電・国は事故が起きた場合の対策を机上のものしか作成せず、原発は危険と訴えてきた団体が、避難道路をつくれ、避難訓練をせよと求めてきたにも関わらず何もやらなかったのです。
それだけに、事故がおきたときのパニック状態はすさまじいものとなってしまいました。
原発事故で住民がどんなに恐怖を感じたかを知らず、事故後も机上の空論を並べ住民を「屋内にとじこめておけばいい」などと考える国は、3.11を少しも反省していません。

廃炉だって危ない
―なお「非常事態」の福島

廃炉作業中の福島第1原発の周辺自治体が、国の避難基準への異議を唱えたのは、
事故後の廃炉作業がいかに危険であるかを痛感しているからです。
廃炉作業が進んでいると言われますが、汚染水対策でこの5年間追われ解決のめども立ちません。
燃料棒もまだおかれたまま。
工事でときおり放射性物質が遠くに風でまき散らされる。
炉心部分は誰にも何が起きているかわからない。
廃炉作業と言ってもとんでもない事故による廃炉ですからどんな危険が待ち受けているかわかりません。
福島県はなお、原発重大事故の「非常事態」が解除されず続いているのです。
地域住民はどんなことが起きても良いように、つねに車にはガソリンを満タン状態にしています。

全国から声をあげてほしい

わたしたち福島原発事故の被害者は、全国の原発立地と周辺地域のみなさんに同じような悲劇はくりかえしてもらいたくありません。
再稼働などとんでもない。
国の「避難計画基準」など何の役にも立ちません。
各自治体から国に対し「基準」の撤回を求めてほしいです。
正常な廃炉作業であっても、電気を消すようなわけにはいきません。
危険がともなうし、とんでもない労力とお金がかかります。
それが全て電気料金に転嫁されます。再稼働しない地域でも、住民には常に避難対策が必要です。

政府の原子力災害現地対策本部は、2月19日に南相馬市議会に対し「4月中の避難指示 解除をめざす」と提案しました。
市議会では 批判が相次ぎました。
小高区をはじめ市内の避難指示区域には 1万1000人が避難中ですが、説明会が開催中。
どこでも反対の声がたくさん出されています。

国は、「避難解除しなければ復興が遅れる」 「放射線量は健康に問題のないレベル」と繰り返しています。
この5年間なんのための避難だったのでしょうか、避難するという事は その地が危険だからです。
除染したから解除しますと言うが、誰が線量を測定しても平常の3倍~20倍はあります。
場所によっては100倍もあるのです。
放射線には絶対安全と言うものはありません。
ですから被ばくするよりは被ばくしない方が良いに決まっているのです。
特に細胞の活発な子どもは最も危険です。
つまり安全 という値はありません。

山積みにされたフレコンバッグ

これ以上誤魔化されないようにしよう

子どもを守るのは親であり大人です。
私たちに一番大事なのは命と健康ではないでしょうか、自然災害は逃れようがありませんが、対策をすれば最小限に抑える事ができます。
放射能は自然界のものを除けば人間がつくったものであり、最も危険なものです。
安全などは絶対ありません。
70年前、広島.長崎に投下された原爆. 1979年3月28日アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所事故. 1986年4月26日ソビエト連邦(現:ウクライナ)の チェルノブイリ原子力発電所事故では、地域住民は何十年過ぎても二世三世と苦しんでいるのです。
放射能に安全という言葉はありません。
惑わされないようにしましょう。

これで「帰還」できますか?!
◆昨年秋小高区内で採取したキノコ放射能汚染セシウム134は6266.55、Bq セシウム137は27341.7Bq 合計33608.252Bq
◆南相馬市小高区川房行政区内土壌の測定結果
除染されていないお宅を2軒紹介して頂き、原発事故以来攪乱されていないと思われる敷地内の草地で土壌サンプリングを行った。
サンプルは、京都大学原子炉実験所にて 風乾後、小石、根っこなどを取り除いて、ゲルマニウム半導体測定器(米国 Canberra 社製 GX3018)にてガンマ線分析を行い、放射性セシウムを定量した。
結果を表に示す

 

私たちは測定結果を見てこのまま子供たちを帰還させていいのかと考えざるを得ません。
この調査はあくまで家の敷地内です。
政府の「避難指示解除」の目安は、自宅から周辺20メートル以内の線量ですが、南相馬の里山は農地や住宅地よりはるかに多いのです。
そして自宅の周辺の里山こそ線量が高く、除染は困難だと、今頃になって無責任にも国も認めざるをえなくなったのです。
いったい、子供が通学以外は自宅から数十メートルより遠くへは行けない、里山も入れないなどという状態で、健やかに育てられるでしょうか。

 


総面積は 91.95 km2
南相馬市小高区は、福島県の東端部、東に太平洋を臨み、西は阿武隈山地の山々に抱かれた、東西13km、南北9kmで田園風景が広がるまちです。
気候は、東日本特有の海洋性気候で、寒暖の差は比較的少なく、夏は涼しく、冬は降雪の少ない、温暖な気象条件に恵まれています。
明治22年(1889)には、町村制が施行され、これまでの小高地方31の村を、小高村・金房村・福浦村の3村に統合し、旧村を大字としました。
明治31年(1898)には、小高村は小高町となり、その後、昭和28年(1953)9月2日、町村合併促進法が施行され、福島県町村合併モデル地区として、昭和29年(1954)年4月1日、小高町・金房村・福浦村が合併し、人口2万人の新しい小高町が誕生しました。
小高町(おだかまち)は、福島県相馬郡に存在した町である。
2006 年(平成 18 年)に原町市および相馬郡鹿島町と合併し南相馬市となった。
旧小高町は地域自治区の「小高区」 となった。

小高出身の著名人にはこんな人も

鈴木安蔵
1904年に福島県相馬郡小高町(現在の南相馬市) に生まれ、中学卒業までをそこで過ごしました。
在籍した相馬中学校では弁論部で活躍し、また、上級生による理不尽な暴力に反発し率先して抗議活動を行うなど、後の鈴木憲法学の礎が偲ばれるような数々の逸話を残しています。
相馬中学卒業後は仙台の第二高等学校に進学し、貧困・飢餓・失業などの社会矛盾に疑問を抱き、次第に社会問題に関心をもつようになっていきました。
1924年、京都帝国大学哲学科に入学後すぐに「京都帝国大学社会科学研究会」(京大社研)に入会、 1945年、日本が敗戦を迎えると、自身が中心となり「憲法草案要綱」をまとめあげました。
それは、1945年の暮れにときの幣原内閣と GHQに手渡され、同時に新聞各紙でもその内容が報道されました。
現在の日本国憲法が GHQ からの「押しつけ憲法」だということがしばしば主張されるが、わが町の誇りである鈴木安蔵先生の創案も取り入れられ、 アメリカの押しつけ憲法ではありません。

 

平田良衛
金房小学校、相馬中学校、第二高校を経て、東京大学卒業。
『日本資本主義発達史講座 』の企画・編集を担当した。
1945年小高にもどり、 金房村の荒れていた土地を開拓した。
その間、 作家高村光太郎との交流があった。

 

私たち小高区住民は旧小高町が大好 きで誇りの持てる街です。
原発事故により全域放射能で汚され安心して住めない街となってしまいました。
現在はフレコンパック(放射能で汚された黒い袋)がいたる所に散在しています。

 

「相双の会」 会報に ご意見を
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載 せたいと考えています。
匿名でもけっこうです。

電話 090(2364)3613

メール(國分) kokubunpi-su@hotmail.co.jp

 

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