10月2日(金)原発事故被害者「相双の会」会報41号が届きましたので、転載します。

県の発表でも11万人近くが避難
福島県が9月1日に発表した数字だけでも、原発事故による「関連死」1,959人(自死、入院患者や高齢者施設入所者の避難移動中の死亡、など)、県外避難者4万4854人、県内避難者6万2849人とされています。
しかし避難指示区域外からの「自主避難」者は完全に掌握していませんし、「関連死」も南相馬市など調査不十分な地域もあります。

「帰還」に向けた準備宿泊は始まったが
原発から20キロ圏内における地域でも、「避難解除」=帰還にむけて準備宿泊が8月31日から始まりました。
南相馬市小高区は「帰還予定」として約一千人が登録されました。
しかし、原発事故前の住民1万2842人には程遠く一割にも満ちていません。
帰還の判断をした方々には、避難を余儀なくされ、地域コミュニティから無理やり引きはがされ、地域住民同士の関係を断ち切られ、人間らしい生活とその基盤を根こそぎ奪われ、今後どこに定着して生活したらいいのか見通しがたたない中で、せめて最後は故郷で迎えたいという被災者が多くいます。
準備宿泊がはじまりましたが登録されたのは高齢者で最愛の家族とも別かれ分かれのままの方が多く、孤独死が心配されます。
なぜ若い働きざかりの方々は準備宿泊に加わらないのか、故郷を思う気持ちは年配者も若い方々も同じ、ただ若い方々は生活のために仕事があること、子供たちを放射能から守らなければならないこと、自分の意思を殺して心配な生活は避けなければならないのです。
ここまで追い詰めてしまったのは東電と国です。

 

京都大学研究者らによる線量調査
放射能はもう大丈夫だと「避難解除」にむけ国も行政も強引にことを進める中、9月23日京都大今中先生をはじめ広島大など5名の学者先生方による放射能汚染実態調査が行われました。
この間小高区川房行政区では除染委員会を結成し、文部科学省の放射線量計測では納得がいかないので、独自に全世帯72世帯を調べてきました。
そこで、信頼できる学者・研究者に調査を依頼しました。
23日には、学者先生方と川房行政区の方々もくわわり総勢20名ほど参加しました。
マスコミの方々も取材にきました。ほとんどの家の除染は終わっていますが、それでも庭先は0.5μSv~1.0μSv/時間、家の裏側は3~4μSvのところもありました。
調査全体の報告は後に公表されます。
相双の会会報にも掲載します。
川房地区はじめ住民の方々にはこれから先のいろいろな判断材料となると思います。

京都大今中助教らによる調査

家旅で原発事故を見たいと現地に来られるのは少ない。
私はありがたく感謝の気持ちでいっぱいです。
再稼働した川内原発立地の議員たちは福島に視察にもこないで、再稼働を認めてしまいました。
一旦事故が起きれば、全てを奪われ死の街となり何十年、何百年も放射能と向き合って生きていかなければなりません。
一人でも多くの方に視察にきていただきたい。
木原さんとご家族のみなさん、遠い福島まで来ていただき有難うございました。(國分富夫記)

 

木原さん家族の感想
わたしたち家族3人は、福島原発事故の今を知りたくて、原発事故から4年半が過ぎようとする9月3.4日の両日、原発事故の被災地をはじめて訪れた。
京都に住む私たちにとって福島は全く不案内でどのように訪ねて行けばよいか迷っていたが、幸いなことに國分富夫様に連絡ができて、案内をしていただくことができた。
初日は仙台空港から国道6号と浜寄りの県道を南下して、まず津波被害の状況を見ることができた。
山元町の中浜小学校や千年塔見学を皮切りに、釣師浜漁港、磯部の相馬市東日本大震災慰霊碑、小高区村上など。
つづいて「除染作業中」の幟がひらめく小高区大田和からはじまる原発被災地のフレコンバッグの集積風景を國分様の説明を聞きながら見た。
その後浪江の「希望の牧場」を訪ねた。
二日目は宿泊地の南相馬から原発事故被災地の荒涼たる風景の中を、双葉町、大熊町、富岡町夜ノ森地区、楢葉町を経ていわき市まで南下、帰途は常磐高速道を北上、高い位置から福島第一原子力発電所の遠景を見ることもできた。
2日間、運転しながらの國分様ならではの案内に心から感謝を申し上げたい。
以下に家族の感想を記させていただく。
一帯を知悉されている國分様から、ここにつぶさにご案内いただき、住むことのできなくなった借日の景色に思いをめぐらした。
とりわけ、原発事故によって生活設計を台無しにされた方々の苦難のほどが如何ばかりであるか、お話を伺ううちにわが身に起きたことのように怒りを感じざるを得なかった。
私にとって今度の旅は、原発被害者のみなさまの活動と共にありたいとの思いに確固とした内実を与えた。
これからは、福島原発事故は何であるかを知人・友人と話題にして、その思いを伝えたい。(木原健一)

直接見て、聞き、沢山のことを感じ、考えた2日間であった。
そのごく一部のご報告を。
一つは國分様の奥様にお話しを伺えたこと。
奥様の話される避難生活の具体はこちらで得ていた知識とはその過酷さにおいて大きく異なった。
静かに話される奥様の気持ちを思い言葉もなかった。
もう一つ、「希望の牧場」を訪れたこと。
「希望の牧場」と言う名前がブラックユーモアに思える状況にありながら300頭余の牛たちの命を全うさせたいと闘っておられる吉沢さんの活動は、あまりにも命を軽んじるものへの告発だと思った。
國分様はじめお会いできた方々に深く感謝いたします。(木原和子)

原発被災地の福島を訪問して、最も強く感じたことは、やはり現地に立って体感したことは頭で考えていたこととは全く違うことであった。
帰還困難地域と避難解除準備区域が道路一本で隔たれている不条理さはその場に立って初めて実感できることであった。
また、実際に浪江町から双葉町に差し掛かる辺りで國分様に「そろそろ窓を閉めて下さい」と言われて、視覚、聴覚、嗅覚のどれでも感知することはできないにもかかわらず、放射線を浴びているという緊張感を強く実感したことも忘れることはできない経験であった。
現地に行けたことをとても感謝しています。(木原麻子)

◆大震災・原発事故後、多くの問題を抱え悩んでいる方が多くなっています。
原発事故後から数年経って発症する「遅発性PTSD(心的外傷後ストレス障害)」に苦しむ住民、住民を支援するも大変な業務量と心労に苦しむ自治体職員の問題。皆様のご参加を頂き、少しでも先の見える日が来ることを願うばかりです。


講師 蟻塚亮二先生《福島県相馬市メンタルクリニックなごみ所長》

(蟻塚先生講演より)
「いつになったらこの街は昔のように賑わいを取り戻すのか、それとももう二度とあの賑わいは戻らないのか、それすらもわからない。
…人は「白か黒か」をいわれたほうが、いっときつらくても受け入れやすい。
「白でなく黒でもない、灰色の状態」にほったらかしにされることには耐えがたい。
そんな「どっちつかず」のあいまいな苦悩を毎日感じながら生活していると、些細な落胆にも、ふっと死にたくなる。
…このような精神状況と、岩手・宮城と異なって福島県だけが自殺者が増えていることとは無関係ではないと思う。

主催「原発いらない」放射能から市民を守る会(連絡先0244-32-0258 会長 國分富夫)
講演 南相馬市 朝日新聞南相馬支局 福島民報新聞社 福島民友新聞社 相馬地方労フォーラム

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