2015年4月25日・26日「福島の現状を知ろう」福島視察が行われました。

二本松市の福島東和有機農研、佐藤氏の圃場を見学。

地域一丸となり、「ひと・土・水・食べ物の測定・把握・分析・対策」に取り組んでおり、子孫の代まで引き継げる里山の再生活動を行っています。

堆肥センターを視察しました。

ワイナリーを見学。ゆうきの里東和を盛り上げようと1から始めたワイナリーです。

ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会の武藤氏から、現在進行中の復興プログラムについてお話いただきました。

東京農工大学による福島農業復興支援プロジェクトが2012年から開始されており、定期的な交流会が開催されています。

 

26日は原発被害者相双の会 國分氏の案内で、南相馬市の仮設住宅内集会所にて、避難されている方々と交流会を行いました。

仮設住宅にお住いの避難者の声を直接お聞きしました。

南相馬からいわき市まで、国道6号線を南下しました。

国道6号沿いの、通行はできても立ち入り禁止(帰還困難区域)の家。

海抜0と化した地の横では、進んでいない護岸工事が。

富岡駅の駅舎の残骸は撤去されておりましたが、何段にも重ねられたフレコンバッグが海岸線まで続いていました。


そこらじゅうに「除染中注意」「架空線注意」ののぼりが立っています。

 

参加者からの声

◆福島原発事故から、2年目の2013年4月に福島日帰りバスツアーに参加させて頂きました。広野町、楢葉町、富岡町を見学し、山、田畑、街並は何も変わらない景色の中、人、動物の姿がないなかでショックと怒りを覚えました。これが原発事故後の現状なんだと思いました。帰ったら家族・友人・知人にこの現状を伝えなければと強く感じました。

それから2年が過ぎ、自分の中では原発の事考えているのですが、日常の生活に追われ普通に生活も出来る中で、自分自身の中の風化を考え参加しました。今でも大量の被曝をしいられながら生活している住民の方が心配です。

そんな中で安倍政権は再稼働をすすめ、原発の輸出等、やりたいほうだいです。ほんとうに腹がたちます。

東和地区について事前に地図で調べましたが、想像していた通りの中山間地でした。

この地で農業を営む事、先人達は大変苦労した事と思いました。原発事故でよけいな仕事、土地、食品の放射線量の測定等増えたと思いますが、有機農業を中心に体に良くて、美味しくて、安全な食べ物を作っている東和のみなさんに感謝致します。

私は季の工房に宿泊しましたが、米、野菜、とくにナメコが美味しかったです。又、景色のすばらしさ、武藤様御家族の温かいおもてなし忘れません。

T.Oさん

 

 

◆この企画に参加したのは自分自身も東北出身で、また友達も福島出身が多く大変な思いをしている話を聞いたからです。それと新聞・テレビなどでは問題自体が小さくなっており実際どうなっているのか自分の目で確かめたいと思いました。

まず福島に到着して思った事は、とても天気が良く青空で若葉がきらきらして山桜があちこちに見られ、それはのどかな山里の風景が続いているのに、それが全て「放射能で汚染されてしまった!」ということです。もし、放射能に赤い色でもついていたらあの山々は真っ赤に染まるのでしょうか?なんともやるせない気持ちになりました。

なのはな生協と提携している東和地区の人たちは、有機農耕が定着してきた矢先の原発事故で、全ての作物に放射能検査をして出荷するなど並々ならぬ苦労をしてきたとのことでした。これがいつまで続くのかと暗澹たる思いで語ってくれましたが、これだけの検査をして、基準値以下のだけを出荷しているのだから逆に一番安全なのは福島産なのではないかと話してきました。あの時は関東でもあちこちホットスポットがあったのに、今関東のスーパーで放射線量を表示している生鮮食品などないでしょう?それなのに福島産というだけで敬遠するのもいかがなものだろうと思われました。

夕食時の交流は、和気藹々としてとてもリラックスして楽しく食べたり飲んだり喋ったりできました。

民宿もアットホームな感じで奥さんの手作りの煮物で二次会が始まり学生時代の合宿の雰囲気でした。

しかし、翌日の南相馬町の仮設住宅の人達の話は悲壮なものでした。線量は二本松よりかなり高いようで、それでも特定避難勧奨指定を解除されたということで、いろいろな問題があるようでした。

とにかく一生、除染との戦いで自分の孫たちは住まわせたくないがこのままだと年寄りしかいない町になってしまうというジレンマがあり、かなりやるせないものがありました。希望がないというのは、これほど人の表情を鬱々とさせるものかと、言う言葉さえ見つかりませんでした。

 

実際、国道6号線を南下していくと線量はどんどん高くなり双葉町と大熊町の第一原発近くでは車内で5.6μ㏜/hもあり外では6倍の30μ㏜/hもあるということでした。

富岡町の駅は津波で破壊した家々がそのまま残っておりフェンスの向こう側には夥しい放射能除染?物質の黒いビニール袋が山になり、延々とあたり一面連なり異常な光景でした。

沿道のいたるところにも除染廃棄物が山積みしてあり、相馬からいわきに入るあたりまでの人家は立ち入り禁止区域で無人の町が延々と続くという考えられない情景でした。

4年もたつというのに思った以上に何の進展も解決策もないという現状に愕然としました。それととても気になったのが、そんなに線量が高いにもかかわらず外で片付けや除染や農作業?をしている人が見えたこと、そして立ち入り禁止区域の警備にあたっている人達が一日中そこに立っているということ、被害者の会の國分さんも言ってましたが、放射能は目に見えないので慣れてしまうのが恐ろしいということでした。放射能は人の「DNAを傷つけてしまう。」と本で読んだことがあります。自分は影響が出なくとも子供に、そしてまた子供にと受け継がれるというのです。また警備にあたっている人達、原発で廃炉に向けて作業している人達の8割は福島の人達という話も聞きます。保障問題などの格差でいがみ合いが起こったり分裂もあったりして一枚岩といかない話しも聞きます。

でもこんな原発問題が起こらなければ、ただの地震災害で復旧に向けて頑張れたはずです。私自身もこんな事故が起きるまで、日本にこんなに原子力発電所があったことに改めて驚きました。それも同じ場所に二つも三つもあるなんてです。これも日本のエネルギー政策、すなわち国策ではないですか?国は経済優先でエネルギーに原発を推し進めてきて、何の根拠もないのに絶対安全という風に洗脳されてしまった。なんと私たちは迂闊だったことかと、しみじみ思いました。福島の人達はとんでもない重荷を背負ってしまったと思います。今こそ声を大にして、これからのエネルギー政策がどうあるべきか議論すべきと思いました。

K.Oさん

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