原発被害者相双の会 会報109号が届きましたので、転載いたします。

南相馬市小高区の石川昌長さんは、三人 兄弟の長男として生まれ戦中派であるが、戦争は全く分からない。
食べ物はろくなものがない幼少時代を過ごしました。

稲作と養蚕農家であり、現在のような農機具などはなく手作業で、牛馬が労働の源です。
父親は 1981 年(昭和 56 年)73 歳、母親は 2001 年(平成13 年)88 歳で亡くなりました。
母親は長期間、特別養護老人ホームにお世話になりましたので、その間母親を見ながら特別養護老人ホームで働いた時期もあったそうです。

何もない時代に苦労しながら育て上げてくれた両親へ、最後まで見る事ができたことに感謝しているそうです。

職業はいろいろ経験しました。
タクシー運 転手、路線バス運転手、生コン運転手等々、特に思い出深いのは生コン運転手のとき労働組合結成に参加したときである。
会社側は労働組合を嫌い会社を解散すると言う不当な攻撃をして組合潰しをしてきたのである。
長期間の闘いにアルバイトをしながら398 日の闘いをしてきました。
この経験の中で「支援していただいた方々を含め多くの仲間ができ人生が一変した」といいます。
その仲間とは 77 歳になる現在も続いている。「貴重な宝である」と微笑ましいです。

45 年間手入れした太陽ツツジ満開に

アルバイトしていた時に植物、特に花に興味を持ち家の周りにツツジをはじめ多くの花を植えました。
それから約 45 年間手入れした報いが写真のような「太陽ツツジ」になり毎年5月 10 日前後に満開となります。
多くの方々が見学に来るようにもなりました。

ただこれまで経験したこともない東日本大震災、そして原発事故があり、人生を狂わされました。
強制避難となり新潟県へ。
親類・隣の方々は何処へ行ったのかさっぱり分からない時期がありました。
10 年を過ぎた今日でも帰還したのは数名でありそれも高齢者ですからこれからどうなるのか心配されます。

石川さんは最後にこう話されました。
「花に親しみながらアルバイトして終活を楽しんでいた矢先の事ですから原発が憎い。

原発がなかったら地域の方々、仲間と楽しめた。私は思う。原発のない安心して生活できる社会であってほしい」。

忘れられないふる里、バラ園で再現
南相馬市小高区川房 横田芳朝

祖先の血のにじむような努力が吹き飛ばされた

原発事故からふる里を追われて早くも10 年の年月が流れてしまいました。
自分たちの家族、仲間、そしてふる里の全て人達が大変な苦労を重ねて来た月日でもあります。
震災前、穏やかに暮らしていた私達のふる里、その故郷の先人達は、豊かな地域、豊かな暮らしを求め、限られた狭い土地か ら一粒でも多くの米を、野菜を、或いは家畜を育てるために血の滲む様な努力を重ねて来た。

そうした祖先の血と汗の結晶は、一瞬の原発事故によって吹き飛ばされ、集落の大半の人達は、放射能を恐れ、ふる里から離れることになってしまったのです。

埼玉から3年通い手入れして

私達家族も、娘の嫁ぎ先の埼玉に避難し現在に至っているのですが、先祖からの大地を捨て去る事に忍び難く、何か作物を植え、自分たちもそして地域も元気になろうという考えが日増しに強くなってきたところでした。
そんな中で、県道に沿った約 50 ㌃の畑にバラを植え付けることにしたのです。2019年から苗を少しずつ買い足し、埼玉から通 いながら手入れをして今年で3年目、よう やく 120 種類、約 2000 本のバラ園がほぼ完成しました。
ふる里に暮らす人、離れた人も、綺麗にそして力強く咲いたバラの花を見ることによって、改めてふる里の素晴らしさと、田畑を残してくれた祖先の努力に 対し感謝の念を持つ事ができればと思っています。

私もそんな思いと自分の健康維持のために始めたバラ園をできるだけ続け、地域の人達の笑顔を届けたいと考えているところです。

原発事故で人生を狂わされた
南相馬市小高区 渡部芳綱

父と楽しく山の仕事

森を守りたいと私の父は若い時から山に携わってきました。
田舎町ですから勤める企業などそれほどありません。
先祖からの田畑を守りながらの仕事と言えば身近な山を相手にするのが手っ取り早いこともあったかと思います。
病気一つしたことなく元気な父でありました。

母は 10 年以上も若い時の苦労が祟ったのか寝たきりの状態となり、隣の皆様にお世話になりながら私も仕事をしていましたが、原発事故が起きる二年前から父と一緒に森林組合の仕事を請負い楽しく山の仕事をしていました。

やっと仮設へ

しかし、原発事故により強制避難となり、行くところがない。
まして寝たきりの母を思うと動きが取れないため、じっと自宅で一週間ほど待機していました。
周りは誰一人いなくなりました。
そんな時、役所の方が来て避難してくださいと廻ってきましたが、行くところがない。
車の燃料(ガソリン)もなく、それでも繋ぎにつないで何とか横浜の妹の所へたどり着きました。
母を妹の所へ頼み父が一人で福島へ戻り避難所を転々としてその後、仮設住宅へ入居することができ、家族三人仮設住宅で過ごしました。

「避難解除」で戻ったが
避難解除について集会などが開催されましたが、解除は時期尚早という声が大半でした。
それでも国と南相馬市が一体となって強引に 2016 年7月避難解除をしました。
解除されても空間線量が高く土壌は除染し たと言っても 100 万㏃/㎡地が当たり前の状態でありましたから解除されても殆んど戻ってきません。
それでも寝たきりの母を考えたとき、ふる里へ戻してあげたいと決意し荒れ果てた家を解体して新築することを決めた。

そんな時、父はおかしな行動をとるようになり、信号無視をするなどがありましたので、車を取り上げました。
寝たきりの母の事もあり、徘徊するようになった父を入 院させました。
その後体調も悪くなり福島市の施設にお願いしました。
何度か肺炎が悪化し、ふる里へ新築した家にも入れず2018 年3月 14 日(享年77 歳)亡くなってしまいました。
悔やまれるのは原発事故がなかったらまだまだ元気でいられたことです。

使い物にならない田畑を前に

母は週6回デーサービスに通い続けてきましたが 2020 年12 月亡くなりました。
両親を最後まで見取る事が出来ましたが、自分はこれからどうしようか悩んでいます。

使い物にならない田畑、父と同じく山に親しみ仕事としてきた自分に何ができるのか、何をやる事もなくボーとしている日が続きます。

原発事故汚染水、海洋放出許せない!
国と東電は事故を起こした福島第一原発から出る汚染水を海底にパイプラインを設置し一キロ程度の沖合に放出する案を検討していると新聞報道があった。
原発近くの沿岸から直接放出する方法と沖合放出のいずれを採用するかについて、原子力規制委員会を交えた協議が始まる見通しであるというのだ。
沿岸から直接放出するのと一キロ程度の沖合へ放出するのとどこに違いがあるのだ。
捨てる所がないから、経費が安く済むから海洋放出する。
そんなこと許されることではない。
海洋は生物の貴重な自然であり、宝である。
それをトイレ無き原子力発電所を稼働させた責任を果たそうともしないで、安上がりだから海洋放出など身勝手も甚だしい。
その前に地下水を原子炉に入らないように完全な方法をまじめに開発することではないか。
地下水の流入対策は凍土壁などの失敗の後一向に防止策の進展はない。
まじめに流入を止める方法を考えるべきだ。
タンクの汚染水はすでに廃炉することに決まっている広大な敷地の第二原発へパイプラインで持って行き、そこで完全に保管管理するべきだ。
これ以上海洋を汚さない。これが最低限の責任である。

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