原発事故被害者「相双の会」会報106号が届きましたので、転載します。

原発事故から 10 年、新型コロナウイルスが世界中で蔓延し、五輪も開催中止を求める世論が 80%占めているにも関わらず中止を宣言できず、税金をどんどん注ぎ込んでいる有様だ。
世界中から選手団が派遣されるのだろうか、観客は来るのだろうか。

緊急事態宣言が発出された時は感染者が減少するが、解除すれば増えてくる。オリンピックとなれば世界の一大行事ですから予測しようもない。
それに日本は原発事故から10年となるが再稼働、新設に沸いている。
安倍元首相は「汚染水はアンダー・コントロール」したからとオリンピックを招致した。
それが今どうか、韓国など国際的な危惧が寄せられる中で「海洋放出」をしようとしている。
放射能公害は何の解決も出来ないままなのである、廃炉には今後 40 年とか言われるが、まだまだ入口から一向に進まない現状だ。

また「復興の証としての五輪」ともいわれる。「福島民報」新聞に、「ふる里復興は順調だ」と考える人は福島県は30%と載っていた。
住民が戻っていない中で公共施設はどんどんつくられていく、帰還者を呼び込めることにつなげたい思いがあってのことか。
景気・雇用などの地域経済は、と、なると 71%が不安視する向きがあると言う。

原発被災市町村で南相馬市(2006 年に小高町、原町市、鹿島町と合併)は合併して5年で原発事故に遭遇し、小高区(旧小高町)は全域強制避難区域となった。
その時の人口は1万 2842 人であった。小高区住民基本台帳に登録されている人口は 7,053 人(2020 年 12月 31 日現在)だ。
3 ・ 11 からすれば自然減を入れたとしても 5,789 人も減った。
多くの避難者は住民票を小高に残したままです。
帰還者は 3,747 人となっているが、もともと小高区住民以外の方が原発廃炉や除染作業員として住民登録し、下請け会社が戸建て、アパート等に住まわせている。
また日中は避難先から自宅へきて草刈りなどする夕方は避難先へ帰る。
この人数を差し引けば正確な帰還者数が出てくる。
いずれこの方々は居住地を他へ持って行くから帰還者ではない。
正確な帰還者は相当に減るだろうと思われます。
他の町村でも同じであろうと思います。
国の原子力災害対策本部は「避難指示解除地域」の居住者が増えているように発表しているが、実態を反映していない。

10年目の避難者・被害者の声

希望に満ちた田舎暮らしを奪った原発事故
南相馬市 清宮義雄

小高にきて本当に良かったのに

生まれは栃木で戦時中は台湾、戦後台湾から引き揚げ、子供時代から東京で生活し就職し生活してきました。
退職間近に田舎暮らしをしたい思いが強くなり、妻は田舎育ちでも ありましたから何のわだかまりもありませんでした。
1999 年(平成 11 年)に南相馬市小高区に移転して 22 年になります。
田舎は広い土地でのんびりと生活できるだろうと思い、それに趣味を活かせる魅力がある。
釣り、山、野菜作りなど夢にまで見た田舎暮らしです。
いざ田舎暮らしをはじめると、農家の人は親切で、近所の人たちは優しく気持ちの良い人ばかりで、娘は都会で結婚していましたから時々孫を連れてきていました。
孫も田舎が大好きになり、はしゃいでいました。

「田舎に来て良かったなぁー」と、心から思っていました。
都会に住んでいたときより一年が短く感じた。
それに、これまで経験できなかった事がアルバイトで通してでき、有り難いことです。
ただ原発事故に遭遇しなければ良かったのですが、原子力発電所が有るとは前から分っていましたが、何の違和感もありませんでした。

爆発時は何が何だかわからず

水素爆発したときに音が聞こえました。
その時シルバーに入っていたものですから会員の家を廻って集金をしている途中でしたので何の爆発なのか解らず、ダイナマイトかな、などと勝手な判断していました。
家内は娘の所、東京へ行っていましたので一人で生活していました。
近くの人が飛んできて来て「原発が爆発した早く避難しろ、逃げろ」と言われるまで何が何だか分かりませんでした。
体育館に避難したが、ここも危ないと言うことなので、「とにかく山の方へ逃げたら良いよ」と言われたので、南相馬市原町区方面へ向かいましたが、道路は渋滞で大変でした。
そんな時、姪から電話が入り新地町に行き二ヶ月程お世話になり、家内は東京へ行っていたので帰れない。
交通手段がないため栃木の那須まで送って頂き東京へ向かいました。
その後原町区に戻り借り上げ住宅に入り、仮設住宅を希望していたが当たりませんでした。

家にジーッとしているのがつらい

小高区が避難解除されたので放射能への抵抗はありましたが。二人だけでもあり戻りました。
でも線量は高かった。以前に測量の仕事など手伝っていたことから草刈り、捜索も手伝ったりしていたので遊んでいることはありませんでした。
一番は家にジーッとしているのは辛いので動いていました。
健康診断で被爆している数値が出ました。原発事故後、娘たちは来ません。
子供もいますから心配です。
目にもみえない、臭いもしないから恐いです。
どこへも行かない、何もできない。
これが一番辛いです。


清宮さん宅

東日本大震災・原発事故から 10年経った今、何を思う我!
南相馬市 佐藤 智子

あの日、南相馬市小高区でひとり仕事中だった。
大きな地鳴りともの凄い揺れに、この世の終わりとも感じた。
翌日には、原発が爆発したとのこと。
職場は自宅待機。家族で話し合い、避難しようということになってから早くも 10 年経過。
今、私は、その原発事故後について、特に汚染水と汚染土壌の処理ついては、とても関心があり「これ以上海を汚すな!市民会議」会員として海洋放出反対の声に賛同する方々と共に活動しています。

又 2011 年原発事故後、国や市町村は、住民を対象に説明会を開き、「避難に関する基準を 1ミリシーベルトから 20ミリシーベルトの範囲内で決めます。」と、いう。
何故20 倍の20ミリシーベルトなのか理解できません。
「何故1ミリシーベルトではだめなのか」と質問しても納得の得られる回答はありませんでした。

20m㏜基準に納得できない

そんな思いを胸に県外の避難先で、原発事故に関する補償についての相談会や研修会等、多数ありました。
特に弁護士、行政書士、家屋調査士による詳細にわたる説明会でした。
参加後、南相馬市の地元ではどうなっているのかと思い、当時の区長さんへ電話連絡すると、2015 年には裁判の準備をするという矢先 のこと。
家族で相談し避難中でも原告団として闘おうと決断し「南相馬20msv 基準撤回訴訟」の原告として現在に至ります。

廃炉できぬうちに地震に不安

しかし、その間、地域の中では、家族崩壊や病気、事故により他界した方が数多く発生し、住民は、仕事や日々の生活の中で、又、 昨年来よりコロナ禍で、生きることだけで精いっぱい…。
地域での子ども会、婦人会、老人会、地域の民族芸能などもなくなり、子育て世帯の中で戻った世帯は数件のみ。
多くは高齢者のみで自宅に戻り、挙句の果てにこれまであった高齢者にとって唯一の交通機関、路線バスも廃止となり、外出もままならず寂しい毎日を過ごしている状況です。
このことは、裁判の中で原告団長の意見陳述で述べています。
まだ隣組は存在しており、市からの広報誌配布があり救われています。
事故から10 年にしていまだ不安が続く中、自然災害が今後の余震や大地震が迫っているとも予測されています。
2 月 13 日の地震はその前触れなのだろうか。

福島第一原発の廃炉は 40 年と言われるが、まだ入り口の段階である。
それに廃炉出来るのかどうかも分からない。
ここで大地震が発生し、予測もしない事が起こったらと思うと、恐ろしいです。

放射能公害は生涯にわたって続く

広島・長崎に 1945 年 8 月 6 日と 9 日に原爆投下以来、アメリカはじめ旧ロシア、中国、 フランス、その他の国々が 2,000 回以上の核実験。
また原発が事故起きています。
福島での原発事故は悲劇的です。
それに加えて汚染水を海洋へ放出等、もっての外です。
「難なく流せる」と、言う国、理解できません。
原発事故は人災です。
放射能公害は10年、20 年で終りではありません。
生涯に亘って命と健康を脅かします。
広島・長崎のように被爆者手帳により、過去、現在だけでなく元に戻ることがない環境の中で生きなければならない未来を補償するということです。
それが国・東電の責任であることをみんなで声を上げましょう。

佐藤さんのふる里大倉地区

フクシマ原発事故は最低でも100年の賠償を必要とする

原子力発電はウランを核分裂させ、自然には存在しない核分裂生成物を生成する。
そのうえ、放射化生成物であるプルトニウム 239(半減期 2 万 4000 年)なども生み出す。
人間はそれらを無毒化する方法を知らないため、それらはどこかに隔離しなければならない。

しかし、その隔離すべき期間は 10 万年から100 万年であり、そのような時の長さにわたって隔離を保証できる科学は存在しない。

フクシマ事故では、セシウム 137 を含め多種類の核分裂生成物が福島県を中心とする大地を汚染した。
放射性物質は半減期の 10 倍の期間がたつと 1000 分の 1 に減る。
セシウム 137の半減期は 30 年であるので、300 年たてば1000 分の 1 に減る。
フクシマ事故から 10 年がたったが、セシウム137 は事故直後の80%がいまだに大地を汚染したままである。
それにも拘らず国は、汚染した土を再利用すると言い出した。

福島県を中心にたくさんの被害者が生み出されたし、その苦難は今でも続いている。
そして、加害者は国策として原発を進めた国と、金もうけのためにそれに乗った電力会社である。
彼らにはフクシマ事故を引き起こした重い責任がある。
100 年たつとセシウム137は10 分の 1 に減る。
しかしそれでもなお、放射線管理区域に指定しなければならない汚染地は残る。
我々は 300 年賠償責任と言いたいが、当面 100 年賠償を明確にさせなければならない。

お願い
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。匿名でもけっこうです。
◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com

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