原発事故被害者「相双の会」会報82号が届きましたので、転載します。

2019年2月18日に仙台高等裁判所で開かれた福島原発避難者損害賠償請求裁判における國分富夫の意見陳述です

1 はじめに 略

2 私たちが失ったもの
(1)住民どうしの深いつながり 略
(2)住民どうしで自然と共存 略
(3)生きるはりあい、心と体の健康
8年前までは適度な運動、仕事をしていましたから体調は良かった。
医者 からも実年齢より若いねと言われていました。
それが原発事故後は、風邪に弱くなり気力が無くなってしまいまし た。
妻も同じく医者通いが多くなった。
心配しているのは、原発事故後、食欲が極端になくなってきてやせ細ってしまいました。
また会話もめっきり少なくなり笑顔すら無くなってきました。
歳を重ねるごとにお茶しながら井戸端会議が多くなるのが普通でありますが、 原発事故後の住まいでは、隣の方との会話がありませんからますます落ち込んでいく、「もう死んだ方がましだわ」とそこに行きついてしまうのです。

農家の方に爺さん婆さんはどうしていますかと聴くと「何もやっていません。
すっかり呆けてしまっている」という。
60年以上も農業一筋に生きてきた人から畑を取り上げたら生きる望みもなくなるだろう。
「家の年寄りは原発に殺されたようなものだ」という。
そうかも知れない。
仮設に閉じ込められて居るときでもプランターにトマト、 キュウリなどを植え付けていた年寄りを見受けられた。

(4)戻れない現実 略

3 原発事故から8年
(1)被ばくの不安
この8年間で明らかになったのは、 いくら除染を繰り返しても拭いきれないということです。
今の科学では自然 消滅を待つしか無い。
放射能に安全な値があるでしょうか、確かに自然界にもあるでしょう。
医療被ばくもあるでしょう。

しかし、原発事故で放出され、あらゆる場所や物質に降り注いだ放射能は、 誰も望んでいないのに、それから逃れることはできないのです。
それに原発稼働により人間が作り出した。
最も危険な放射能が原発事故により放出され加わりました。
事故により大量に放出 された放射性物質セシウム 137 と聞いております。
その物質が元に戻るのは 200年から 300年と聞いております。
そんなことは若い方々はしっかりと勉強しておりますから誤魔化す事は出来ません。
それだけ放射能への知識は高まり安心・安全を求めるのが強いと思います。

(2)避難指示解除後
私たちは、強制避難によってこれまで経験のなかった先の見えない生活をしてきました。
そんな中、住民の声も聞かずに一方的に避難指示は解除され、 盛んに「安全だから、安心だから」といって、帰還することを勧められております。
しかし、帰還しているのは高齢者がほとんどで、その中でも車の運転のできる人です。
若い方はほんの少数に止まっています。
解除したところは確かに除染をしました。
しかし事故前に戻ったところはあるでしょうか、ほとんど無いのが実態です。
それに里山は手つかずの状態でしょう。
空間線量は下がったが土壌はどうなっているでしょうか、よく言われるのは除染したがまた線量が上がってきたと言われます。
そんなところで安心して子育て出来る訳ありません。
解除したからと帰還を勧めるが、その後のことに責任を取れますかとなれば「帰るも自由、帰らぬも自由」と無責任な言われ方をします。

(3)私たちの望み
残された幾ばくも無い人生をどう生きて行けば良いのか、
このままじっと我慢して人生の終わりを待てというのか、原発がなかったらこんな思いをしなくても済んだのに、せめて被害者への責任を果たすのは加害者の責務でしょう。

何度も言うが私たちには何の落度もありません。
原発を造って下さいなど言ったこともありません。
むしろこの世でこれほど危険なものはないから造るべきでないと、何度も何度も言ってきたのです。

福島県の浜通りは農業で成り立ってきました。
その農地は、私たちの先人達が鍬一丁で子孫、後世のために苦労に苦労を重ね、何代もかけて開拓し、 田畑を増やしてきた農地であります。
その先人達への責任をどう取るのですか、原子力発電所は国策だから事故を起こし放射能をバラ蒔いてもやむを得ないなどと言うのでしょうか、私たちはとてつもない望みを持っているわけではありません。
東京電力は事故を起こしてしまった責任を取ること、被害者の失ったものと今後のことへの責任を取るのは当たり前のことであります。
裁判所には、こんな私たちの切なる思いを十分に理解し、判決を出していただきたいと思います。
以上

発電所周辺の環境でも、極度の悲劇が いまだに進行中である。
事故当日、原子力緊急事態宣言が発令され、初め3km、次に10km、そして20kmと強制避難の指示が拡大していき、人々は手荷物だけを持って家を離れた。
家畜やペットは棄てられた。
それだけではない、福島第一原子力発電所から40~50km も離れ、 事故直後は何の警告も指示も受けなかった飯舘村は、事故後一カ月以上たってから極度に汚染されているとして、避難の指示が出、全村離村となった。
人々の幸せとはいったいどのようなことを言うのだろう。
多くの人にとって、家族、仲間、 隣人、恋人たちとの穏やかな日が、明日も、明後日も、その次の日も何気なく続いていくことこそ、幸せというものであろう。
それがある日突然に断ち切られた。
避難した人々は初めは体育館などの避難所、次に、2人で四畳半の仮設住宅、さらに災害復興住宅や、みなし仮設住宅へ移った。
その間に、それまでは一緒に暮 らしていた家族もバラバラになった。
生活を丸ごと破壊され、絶望の底で自ら命を絶つ人も、未だに後を絶たない。

それだけではない。
極度の汚染のために強制避難させられた地域の外側にも、 本来であれば「放射線管理区域」にしなければいけない汚染地帯が広大に生じた。
「放射線管理区域」とは放射線を取り扱って給料を得る大人、放射線業務従事者だけが立ち入りを許される場である。
そして放射線業務従事者であっても、放射線管理区域に入ったら、水を飲むことも食べ物を食べることも禁じられる。
もちろん寝ることも禁じられるし、放射線管理区域にはトイレすらなく、排せつもできない。
国は、今は緊急事態だとして、 従来の法令を反故にし、その汚染地帯に数百万人の人を棄てた。
棄てられた人々は、赤ん坊も含めそこで水を飲み、食べ物を食べ、寝ている。
当然、被曝による危険を背負わせられる。
棄てられた人は 皆不安であろう。
被曝を避けようとして、 仕事を捨て、家族全員で避難した人もいる。
子どもだけは被曝から守りたいと、 男親は汚染地に残って仕事をし、子どもと母親だけ避難した人もいる。
でも、そうしようとすれば、生活が崩壊したり、 家庭が崩壊する。
汚染地に残れば身体が傷つき、避難すれば心が潰れる。
棄てられた人々は、事故から7年以上、毎日毎日苦悩を抱えて生きてきた。

その上、国は2017年3月になって 国は、一度は避難させた、あるいは自主的に避難していた人たちに対して、1年間に20ミリシーベルトを越えないような汚染地であれば帰還するように指示し、 それまでは曲がりなりにも支援してきた住宅補償を打ち切った。
そうなれば、汚染地に戻らざるを得ない人も出る。
今、 福島では復興が何より大切だとされている。
そこで生きるしかない状態にされれば、もちろん皆、復興を願う。
そして人は毎日、恐怖を抱えながらは生きられない。
汚染があることを忘れてしまいたいし、幸か不幸か放射能は目に見えない。
国や自治体は積極的に忘れてしまえと仕向けてくる。
逆に、汚染や不安を口にすれば、復興の邪魔だと非難されてしまう。
(次号に続く)

環境省は、放射性物質の濃度が一定の基準を下回ったものを除染土壌の保管施設がないので、全国の公共事業に道路や 防潮堤などの建設資材として再利用しようとしている。
実際に廃棄物で盛り土を築き、周囲の放射線量などを確認する実証事業を、福島県南相馬市から始めた。
国直轄除染による除去土壌は、すべて中間貯蔵施設へ持って行くはずだった。
それを地元で処分するという事は福島県民を実験台にするようなものだ。

実証事業では、廃棄物1000立方 メートルを使って実際に盛り土を築いた上で、周囲の放射線量の測定や大雨などの災害による土の流出対策などを数年間にわたって行い、再生利用の安全性について確認することにしているが、いくら除染土壌が低線量であっても全国の公共事業に利活用することが最善なのだろうか。
「仮置場 3年、中間貯蔵施設へ 30年、 その後は福島県外へ最終処分場へ」となっていたにも関わらず、国民を愚弄している。

日本の法律では「一年間の被曝量が 1ミリシーベルトに達してはならない」という基準がある。
年間 1ミリシーベルトの基 準は 1万人に1人が癌で死ぬ確率なそうである。
福島の原発事故が起きてしまったので、「20ミリシーベルトまで我慢しなさい」と年間被爆量の基準を変えてしまったのである。
そうしないと近隣県まで避難を余儀なくされることになるからだ。

国は原発は安全基準が厳しいから事故は起きない、起きた時は国が全責任をもつと言った。
ところが事故の廃棄物さえ全国にばらまこうとする。
絶対に許してはならない。
狭い日本に 52基の原発 が稼働していたことを 考えるとこれから先、不安でならない。

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◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com

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