3月1日(水)原発事故被害者「相双の会」会報58号が届きましたので、転載します。


すでに事故から6年をすぎた現在、日本に住むほとんどの人は「事故と被害は終った」と勘違いしているが、福島第一原発の事故現場では、大量の放射能放出が続いている。
現在も「原子力緊急事態宣言」が発令されたままであり、昨年11月には、ついに福島県沖60kmほどの海底で、マグニチュード 7・4 の大地震が起こった。
これは 1995年の阪神大震災より大きな地震であった。
私が住む東京でも、しばらく揺れが続いてこわかったのだから、福島の人たちの恐怖は察するに余りある。
かろうじて爆発を免れた福島第二原発では、この地震で、燃料プールの冷却が一時できなくなった。
しかしこれは海底の地震であり、私が最もおそれている陸上の直下地震ではなかった。
福島原発のすぐ近くには、宮城県にまで達する70キロメートルという長大な双葉断層があって、マグニチュー ド8近い巨大地震を起こすおそれが高い。
東日本大震災からちょうど一ヶ月後に、その 周辺断層が動いて1メートルを超える上下のズレを起こしたからである。
今後も、大きな地震が発生すれば、福島第一原発に何が起こるか分らない。
東京電力が必死になって回収してきた放射能汚染水は、ハンパな量ではない。
この 6年間で貯蔵量が 90万立方メートルというトテツモナイ量に達しているのだ。
1立方メー トルとは、一辺が 1メートルのサイコロの大きさだから、それを縦に積み上げると、90万メートルになる。富士山の高さは 3776メートルだから、90万メートルは富士山の 238倍で、想像もできない量だ。
しかもその汚染水が、地下に流れこんで、そこから外洋にどんどん流れ出している。
海岸線の地下水は、太平洋の遠い沖合とつながっているからである。
福島第一原発沖の表層海水のセシウム 137濃度は、昨年 9月3日の時点で、その2ヶ月半前に比べて、2倍近くも上昇している。
大量の海水を持つ太平洋の濃度が上昇したということは、トテツモナイ量の汚染水が海に流れ出していることを意味する。
こうした重大な事実を、「風評被害だ。なんでもない」と、社会学者を自称する人間たちが、必死になって鎮静化しようとしている。
問題は、その汚染水に含まれている放射性物質のうち、汚染水に大量に流れこんでいるトリチウムの危険性なのである。
「知られざるおそるべきトリチウムの危険性」について、インターネット上で公開した私の文書(http://diamond.jp/articles/-/75003)に は、100万を超えるアクセス数が記録された。
必ずお読みいただきたい。(2017年2月22日)

避難者の6年間

原発をつくらせるべきではなかった
南相馬小高区から埼玉へ避難 横田芳朝

2011年3.11。
1千年に1回といわれる大地震、大津波に襲われた私達の町。
その翌日の夕方、町の防災無線から緊急放送があった。
原発が危ないので逃げる様にと。
あ、そうか。2~3日で収まるだろうから 取り敢えず、親戚の家にでもお世話になって来るかと。
そんな軽い気持ちでの避難が、 丸々6年経っても家に戻れない事になろうとは当時は夢にも思いませんでした。

避難生活でまだ先が見えない
この6年の避難生活の中で、それまでの暮らしが一変してしまいました。
元気だった母は、足の骨折から動けなくなり、施設に入所しました。
穏やかな性格の妻は、パニック症候群とやらで朝晩、動悸や両足のひどいほてりに悩まされております。
息子は幸いにも避難先で仕事に就くことが出来、 会社のみなさんにお世話になり一家を支えております。
幼かった孫達も、この6年の間に大きく成長しました。
各地で、原発避難の子供達がいじめを受けたことが今頃になって出てきましたが、幸いにも我が家の子供達はそんなこともなく学校生活を送れたようです。

↑横田さんの荒れ果てた梨畑

原発公害は全てを狂わせた
私はといえば、50年以上も農作業で鍛えた頑強な体は、急に田畑の仕事を無くしたことから筋肉がやせ細ってしまいました。
たまに避難先のさいたま市から南相馬の自宅に戻り、荒れ果てた自宅の手入れに汗を流すと無性に心が落ち着くこの頃です。
16代続いた農家の跡取りとして、原発のせいでその次の代が途絶えそうだと考える時に、地域発展の柱を原発に頼ったことが間違っていたことを改めて思うのです。
昨年、足尾鉱毒事 件のあっ た渡良瀬遊水地に行く機会がありました。

ここは、明治時代に足尾銅山の鉱毒害から壊滅的な被害を受けたところです。
地元では鉱山の停止を政府に訴えるのですが、残念ながら政府はこれを退け、逆に旧谷中村に広大な遊水地を作り鉱毒をそこに入れ、住んでいた村人たちを追い出してしまったのです。
これは、原発事故と全く同じ構造で被害者をおいやる棄民政策です。
東電の経営は国費を投入して救済し、除染作業で出た大量の放射能汚染物は、国費で双葉郡内の土地を買い上げ、そこに貯蔵するとか。
ではその先どうなるのでしょうか、そこはもう国有地なのですから、後で地元がどうこう言ってもどうしようもありません。
半永久的に 置かれると思うのです。

後世のために今できる事は
先日、ベラルーシのノーベル賞作家、アレクシェービッチさんが福島に来られました。
講演の中で「日本社会の中には抵抗の文化が無い」と話されました。
そう、その通りだったんです。
原子力の平和利用などは、今回の事故を考えた時にあり得ないので、最初から作らせるべきではなかったのです。
反対すべきだったのです。
アレクシェービッチさんのお話から改めて思ったところです。

くやしくて、残念で
飯舘村長泥から福島市へ避難 鴫原清三

平成23年3月12日、ラジオで第一原発1号機が水素爆発したことを聞きました。
その時、飯舘いちばん館に浜通りから 1200人が避難していました。
次の日の3月14日 には、第一原発3号機が水素爆発。
そして、 さらに2号機、私達、長泥部落に放射線量が大量に落ちたこともわからず3日間、長泥コミュニティセンターで避難しているいちばん館に炊き出しをしていました。
その時、長泥十文路に白い防御服を着ていた4、 5人の人が立っていた。
たずねると 95マイクロシーベルトあると聞きました。
その時、 私達は、この数字がどの程度で体に影響あるのかわかりませんでした。
やっとのことで3月19日、希望者の集団避難が鹿沼市に決まり、500人ほど避難したと聞いています。
それから何日かが過ぎ計画的避難になり、私の家族は牛がいたので遅れて、5月24日に福島市笹谷のアパートに避難させました。
私は1か月遅れてすべての牛を手放し、6月27日に避難しました。

長生きで楽しかった長泥を思い出す
避難して6年の月日がたち、長泥の事を思い出します。
R399号線の高台に天皇陛下の御結婚の記念樹として植えた桜の木があり、公園として部落で何十年も手入れをしていた。
その高台から海が見え、第一原発も見える所です。
長泥は75軒あり、ほとんどが兼業農家で米は特栽米を作り、又高冷地ならでの野菜と花を作り、また、他の地区より早くタラノメやヤーコン栽培をし、加工・販売までしていました。
長泥地区はほとんど後継者がいて、原町、福島方面から嫁をもらい、 自分はもとよりどの家族も円満で活気ある楽しい生活をしていました。
私の家は、6人家族で飯舘牛10頭とトルコキキョウを 30a作り、和牛は30年前に導入し、品種改良し5代にわたり飯舘牛を作ってきました。
花(トルコキキョウ)は 震災前20年ほど作り、高冷地のトルコキキョウは、色といい、花もちが良く有名になり、高値で取引し、基盤に乗り農林大臣賞など、いろいろな賞を頂き、家族の励みとなりました。
飯舘は自然に恵まれ出きる植物がたくさん取れ、又、薬草などが取れ、病気になる人が少なく、健康で長生きが多く3世代が多かったです。
私たちは、環境を保つために、協同で河川や道路の草刈りをしていた。
春には部落あげて花見をし、田植えが終われば各組で骨休めし、相馬の松川のホテル、 福島方面の温泉に行き、懇親会をしていました。
又、夏には、部落あげての盆踊り、 ふる里に帰ってくる人達でにぎやかにやぐらを囲んで、四重、五重の輪になって踊っていたのを思いうかびます。
新年会は、コミュニティセンターでカラオケをし、夜遅くまで飲んで親睦を深めていました。

にくまれ口といじめ
今、まだ6年たっても除染もしてもらえず、バリケードを締められ、いつもどれるかわかりません。
避難した当時は、福島市の人に「たいへんだよネ、ガンバッテ」と言われ、とてもうれしかったです。
それが、 2年も経過すれば、「賠償金もらっていいよネ」の話しでにくまれ口を言われました。
他県に避難し、大人、子供たちがいじめにあっています。
福島でさえ、そういう人がいるのですから・・・・

父が汗を流して築きあげた土地、家、財産をすべてなげ出してきているのに、くやしくて残念です。
今は、笹谷で土地を借り、 トルコキキョウを作り5年になります。月 に5、6回は長泥に行き、震災前にいた3匹の猫にえさを与え、家の回りの手入れをしています。
昨年(2016年)の秋、国から説明があり、 復興拠点を長泥に作り、ある一部を除染しその他の土地は除染せず、5年後には解除する話しです。
帰るにも帰れない。
帰っても何もできない。
この6年間、長泥にもどろうと決め、 除染をしてもらい、何人がもどるかわかりませんが、仲間と暮らせることを期待し考えていました。
国の説明を聞いてくやしくて残念です。
6年前に長泥で暮らしたように農業をし、あと何年出来るかわかりませんが、息子と相談し、前の長泥にいたように一家族で暮らすために、自分の土地を見つけ頑張りたいです。
そして、飯舘村にいた仲間と酒をかわし、絆を深め付き合っていきたいです。

*「放射能エコロジー研究会第8回シンポジウム福島」での報告

フクシマ事故被害者の健康と命を守るために(上)
振津かつみ・兵庫医科大学

東京電力福島第一原発の重大事故により大量の放射性物質が放出された。
事故によって「放射線管理区域」レベルに汚染された地域は、福島と周辺県を含む広範囲に及ぶ。
「管理区域」とは、放射性セシウムなどα線以外の放射線を出す物質で4万Bq/m2以上の表面汚染密度の区域。
放射線防護の法律では、管理区域での作業の個人線量モニタリング、定期健康診断等が義務づけられている。
また区域内では飲食等は禁止されている。
その地域に居住する約 400万人の住民は、1年目の外部被曝だけでも「一般公衆の年間線量限度」の 1mSvを超える追加被曝をし、その結果、被曝量に応じた将来の健康への「追加リスク」を被った。
また、すでに約5万人もの労働者が、高線量下の事故収束作業に従事している。

国策で進めてきた原発での重大事故で多くの人々が生活を奪われ、健康リスクを背負わされたのである。
全ての被害住民と被曝労働者の生涯にわたる健康管理と医療給付を行うことは、最低限の国の責任である。

広島・長崎の原爆被爆者の経験と援護策を、原発事故被災地の健康管理・医療支援に活かす広島・長崎の原爆被爆者は、「被爆者援護法」に基づいて「健康手帳」を取得すれば、「原爆傷害作用の起因性」の認定を要しない「一般疾病」でも、全国各地の「一般疾病医療機関」での医療費(保険診療の窓口負担分)が国庫から支出される。
また、年2回の定期健診(血液・尿検査等)と2回の希望健診(うち1回はガン検診が受けられる)が無料で受けられる。
規定の要件に該当すれば「健康管理手当」等の諸手当を受給できる。
爆心地から 3.5km(外部被曝 1mSv に相当)以内の被爆者が、ガン・白血病など7疾患に罹患した場合は、「放射線起因性」を「積極的に認定」する新たな方針が 2008 年に厚労省から出された。
(以下次号)
*飯舘村放射能エコロジー研究会第 8 回シンポ報告レジメ(一部報告者により修正)から転載

 

2 月 21 日原発被害者裁判 第21回口頭弁論での原告の証言から(抜粋)

I.Yさん(南相馬小高から会津に避難)
5年間で走行距離 14万キロ超える
伊達市の実家に避難したが3月22日からは南会津町に避難。
伊達市の実家も放射線量が高くなってきて、健康への影響を考えると、原発からできる限り離れたいという気持ちがありました。
南会津の借家が当時の勤務先から4時間はかかったから、4月3日から伊達市にある実家に私だけ移りました。
その後、会津若松市の借上げ住宅を経て会津若松で自宅不動産を購入し新築しました。
震災後の5年間で、車の走行距離(メーター)が 14万キロ増えました。
家族と同居し始めてからは年間2万キロくらい走行しているので、離れ離れで生活していた2年間で8万キロもの距離(1年間あたり4万キロ)を移動していることになります。

家を建てても避難終了ではない
会津若松に自宅をかまえたが避難が終了したとは考えていません。
小高は豊かな自然環境です。
遠くに山々が見える。
見渡す限り青い空が見える。
海が近く風が気持ちよい。
雪の多い会津とはちがって温暖な気候環境。
子どもたちをのびのび育て、生活をしていくのに、コンパクトにまとまっていて、 最適な町だと思っていました。
小高の自宅の敷地は 940平方メートル(284坪)。
会津の敷地は 241m2(73 坪)。
小高の建物は2階建てで、1階が185平方メートル(56坪)くらい、2階が74平方メートル(22坪)くらい。
今の家は1階が 74m2(22 坪)、2階が67m2(20坪)です。
小高の家の向かい側が小学校です。
中学も歩いて 10分ほどです。
現在の自宅から長女は徒歩で 30分かかるので、ほぼ毎日車で送迎しています。
長男は徒歩で15分かかり、 雪の時期はもっと時間がかかります。

戻りたいが 18歳になるまでは
長女は、小高の自宅に防護服を着てでも、 一度でいいから行きたいと言います。
部屋に置いたままのお気に入りの物を取りに行きたいのです。
しかし、連れて行こうとは思いません。
長女は「すべて揃っていたのに、すべてなくなった」と言います。
私たち家族の実感を象徴していると思いました。
小高には、少なくとも子どもが 18歳になるまでは戻ろうと思いません。
原発の状況に不安で、子どもの健康に万一のことがあってはならないからです。
夫婦二人なら今でも小高に戻りたいという気持ちはあります。
しかし、子どもたちが就学期を終えるまではと思うので、かなり先になる。
またその ときの状況によります。

↑人の住んでいない夕暮れの町

K.Nさん(楢葉からいわきに避難)
荒れ果てた自宅も住宅ローン支払い
平成6年に埼玉から母の郷里に移住してきた。
家族4人で幸せに暮らしていくはずでした。
地縁血縁の濃い土地柄で、強い地域性に最初は戸惑いました。
だから積極的に地域活動に参加し,信頼関係を築きあげる努力をしました。
子供会やPTA活動に参加しました。
そして、気づくと玄関に季節の野菜がおいてあることもあって、「地元の人より,地元のことがわかっているね」 と言われるようになりました。
今、楢葉の荒れ果てた自宅に行っても, 何も手につかず,また避難先に戻ることの虚しさ、家族との思い出に浸る感傷の時間でしかありません。
部屋の片づけはできず、 家財や私物は半ばゴミと化していましたが, 環境省に搬出と運搬を依頼しました。
2014年12月8日に東電職員がきて,今まで心の 整理が出来ずに手につかなかった家財を処分することにしました。
自宅のローンは約 1700万円ありました。
預貯金と東電からの賠償金を合わせて完済しました。
夫・私・長男・次男の包括的請求の賠償金を充てました。
家族会議で、まずは借金を無くすことが先決との判断に至りました。
長男と次男の協力にはとても感謝していますが、同時に申し訳ない気持ちもあります。
借り上げ住宅に避難していたが、実質二間で大人3人暮らしに限界を感じて脱出したいと、東電から住宅確保損害をもらっていわきに家を購入したが、これを終の棲家にするかどうか今は判断できません。
楢葉の家も残っている。
平成27年9月5日避難指示も解除された。
望郷の念は当然ある。
家は両方持たざるをえない。
将来的に固定資産税かかる。
管理も負担となります。

絶望の6年目
大熊町の叔父は,田んぼや畑仕事をこなし,大型バイクも乗りこなすような豪快な人でした。
しかし,事故後は,いわき市の4畳半2間の仮設住宅に叔母と二人で住み, 昨年から認知症と体力の衰えが急激に進み, とうとう寝たきりに。
そして病院に緊急入院して三日目でした。
最後は衰弱したように細く小さくなり自力で呼吸もできなくなりました。
俺は大熊に帰ると言ってきかなかった。
本当に原発事故さえなかったら! と思います。
この結果は避難生活がもたらしたものとしか言いようがない。

↑高齢者の多い 4 畳半二間の仮設住宅

楢葉のコミュニティはすべて崩壊してしまった。
地域特有の親近感や愛着といったものはすべて奪われてしまいました。
人間関係は何年も何年も培ってきたもの。
元通りになることはない。
この6年間を一言で表現すれば、無我夢中で逃げた1年目。
不安と葛藤の2年目。
展望の見いだせない3年目。
そして、すでに気力体力の限界を超えた4年目。
故郷への望郷を抱きながらも 避難先に滞在を続けざるを得ない絶望の5年目から現在といった感じです。

戻るか戻らないか応えられないのが苦しい、辛い
楢葉に戻るか,他に移住するかということについて,今は決断できていません。
「戻っても地獄,残っても地獄」です。
私達は社会の一員として皆平等であるはずです。
それなのに,なぜ生活を根底から奪われてなお,最後は自己決定?自己選択?を強いられるのでしょうか。
戻るか戻らないかという問に,今イエス,ノーを答えられる人は殆どいないと思う。
二度と楢葉町に戻らないのか、と問われると苦しいです。
10年先か?20年先か?永久に無理か?今は判断がつきません。
住み慣れた我が家のある楢葉町です。楢葉町には愛着も望郷の気持ちもあります。
これからも楢葉町民ではあり続けたいと願います。
しかし、医療機関・商業施設・教育施設・雇用の場の復旧状況は不透明。
廃炉作業や復旧復興関連作業の外部の労働者人口流入による防犯上の心配や共存の不透明さ。
原発は再び事故を起こしかねない。
2号機 650シーベルトとの報道もある。
第二原発も廃炉の明言はない。
楢葉に戻ってきているのは1割程度。
その3分の2は高齢者。
仮置き場が増えている。
元のかたの家は荒れて解体もされている。
心が痛みます。
どうなるのか、どうするべきか、それが自分でも決められない。
戻る先は戻れない状況にある。
そうといって移住してしまうのか,ふるさとなのでそれを捨てるのはしのびない。
いつまでなのか,それも答えられない。
だから苦しい。
それが辛い。
いわきと楢葉2つの場所に引き裂かれた様な気持ちです。

原発被害者裁判の傍聴においで下さい

■第22回裁判期日
3月22日13時15分開始予定 福島地裁いわき支部 *原告側証人尋問として除本理史さん(大阪市立大学教授)が立ちます
■第23回裁判期日
4月19日10時福島地裁いわき支部 *原告本人尋問として、10名が立ちます

 

「相双の会」会報に ご意見を
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。
匿名でもけっこうです。
◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com

 

 

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