8月31日(水)原発事故被害者「相双の会」会報52号が届きましたので、転載します。

相双の会52

福島原発事故の処理対策も出来ないままに九州電力川内原発1、2号機はじめ 8月12日四国電力伊方原発1号機が再稼働された。
熊本地震から危機一髪でのがれた川内原発、伊方原発は巨大地震への対応は困難といわれている。
南海トラフ巨大地震が想定されている細長い佐田岬半島の付け根にある原発であり、半島の住民は孤立する恐れがあることからすれば災害対応は困難。
さらに日本最大規模の活断層があるのでもっとも危険である。
それでも再稼働を強行してくるのか。
福島原発の事故被害を見れば再稼働は出来ない。
また責任など取れな い。
その現実は本号で紹介する裁判原告の訴えをみてほしい。

 

8.24原発避難者訴訟第18回弁論から

原発事故は住民から何をうばいつつあるのか

8月24日第18回弁論が福島地裁いわき支部で行われた。
原告の要望でスピードアップが 図られ、今回から二つの法廷を使い、丸1日かけて10人の原告の尋問をおこなった。
そのうちから3名の原告の尋問での訴えの一部を紹介いたします。
再稼働と避難解除が強行され事故は終わったかのような錯覚がある中で、改めて事故被害は進行中であることを知っていただきたい。

双葉町・Mさん (いわきに避難)

双葉町の家の間取りは8畳間が4つ、10畳間1つ、15 畳間1つ、そしてダイニングキッチンがあった。
夫婦と子ども3人。両親は南相馬市に住んでいる。
車で 30分位の距離です。
夫婦で2週間に1回は行っていた。
長男は同居し私達の老後の面倒を見ると約束してくれていた。
一番の楽しみは相馬の野馬追祭りへの参加だ。
野馬追の衣装、下着、ハチマキ、陣羽織は、ほぼ毎年、妻の手作りで新調して貰い、 甲冑は1人で着れないので、家族に手伝って貰う。
妻や息子、娘2人も手伝いに来てくれる家族挙げてのイベントでした。
しかし原発事故で参加者も観光客、なかでも若者が減少している。
後継者もなかなかいない。
私の生きがいの祭りがなくなってしまうのではと不安でいっぱいだ。
自分で甲冑の修理をできるように、染色・組紐・添塗などの勉強をして、定年退職(来年1月)後に、馬具・甲冑 を主に扱う古物商の店を双葉の自宅で開設する予定だった。

家族それぞれ失ったもの

古物商の店をふるさとで開く夢,定年後の生活設計でした。
長男が私と妻の老後を見ながら生活をともにする。
将来、娘たちが結婚して家から出ても、双葉の家で娘夫婦や孫と会う。
妻は職場、趣味のガーデニング、友人との頻繁な交流を失った。
長女は双葉で地域とのつながりの強い仕事に喜びを感じていたが、深い喪失感を感じている。
今では肌に合わない東京での生活を強いられている。
次女は、双葉の病院で看護婦として働く予定だったのに、病院が閉鎖して職を失った。
また、線量が怖くて、双葉はもちろんのこと、私の両親がいる南相馬市にすら立ち入ることを拒否している。
私たちが 住むいわきに来るのにも遠回りしてくる。
線量の恐怖に常に悩まされている。
私は避難所でのストレスで、不整脈の症状が頻発し、息苦しさ、視野が狭くなる、呼吸が苦しくなる、圧迫感などが生じた。
多い時は日に5・6回あった。事故後、すぐに働けるように会社から集められ、住む部屋は6畳 2間、3畳1間で5階建ての4階でエレベー ターはない。
階段は大変つらい。
上下から歩く足音・会話・テレビ・音楽・トイレの音まで全て聞こえる。
双葉の自宅はイノシシが庭を掘り返し、家の中はネズミ等により荒らさ れている。
夫婦で一時帰宅する度に、段々と家が朽ちていくのが分かり大変悲しい。
双葉 からの帰路、夫婦の会話は虚しさが募り、 しゃべれなくなってしまい、黙って運転するだけです。

避難者とそれ以外の住民に高い壁

平成 23年、いわき市民に1人あたり8万円の慰謝料が支払われた際、職場の先輩が私に「俺らは1人8万だけだ」「お前らは毎月1人10万円「何も困らないべ」と皆の前で大声で言われた。
職場は 12人いて、そのうち 3人が避難者。
職場では原発の話になると必ず賠償金の話になる。
「幾ら貯まった」「誰々は子供6人でジイ・バア入れて 10人家族月100 万貰って、何千万円と貯まったそうだ」 「お前は幾ら貯まった」等。
全く嫌味でいう人、冗談半分の人など様々だ。
本当に心配してくれて「金は貯めておけよ」 「土地の世話するか」と言う人もいるが、本気で言われると対応に困ってしまい、ストレスになる。
避難者同士での情報交換はあるが、避難者以外の人が近づいてくると話は中断する。
職場の中で、避難者とそれ以外の人たちの間に高い壁がありユウウツです。

私は怒っている

私は平成 26 年に、医師から従来からの糖尿病と心臓の病気が悪くなっていると聞かされ、隣室の人が救急車で運ばれたことで、 精神的にまいった。
夜中に目がさめ「長女、 長男の結婚は何時になるのか」「自分の家で死にたい」「こんなスキマ風の多い所で死にたくない」と思い、眠れなくなった。
死んだ 方が楽とまで思ったが、それでは「東電に殺されるようなものだ」と思って思いとどまった。
東電の社長らは、避難者に対して面と向かって謝る事もしていない。
また、東電は事故をないものにしようとしている、原発再稼働、オリンピックなどで事故の重大性、責任が薄められている。
こんな事は絶対に許せない。
私は怒っている。
この事を忘れないで下さい。

浪江町・I さん (会津若松に避難)

実家は富岡で妻の実家は原町。
娘が 3歳に なった直後に原発事故。
夫婦共稼ぎで,妻の職場近くの託児所に預けていた。
住んでいた 浪江は富岡と原町のちょうど中間で、行き来するのに便利だった。
農作業の手伝いなど仕事の帰りに家によっていた。
野菜を店で買うことはあまりなかった。
両親は兄嫁の実家の山梨県に避難したがその後、郡山の仮設住宅に入った。
昨年、父がなくなったので、母は仮設から介護付き賃貸住宅へ入居した。
富岡の実家は部屋がたくさんあったが、父母が住んでいた仮設も私の借上げも狭い2LDKで親族が集まれない。
実家のある地区は居住制限区域で,家の近くは帰還困難区域に指定されている。
帰還のめどはたっていない。
富岡の実家の建物は取り壊すことを兄と話をしている。
退職している世代は戻るかもしれないが、 仕事をしている世代、特に避難先で仕事をしているとそう簡単には戻れない。
小さな子どもがいればなおさら戻れない。

親も子もストレスで

娘は、3月11日朝、家を出て、自宅に帰れないままでいる。
ようやく猪苗代の借り上げ住宅での生活が落ち着いてきた。
幼稚園の友達とはなれるのが嫌だということで、猪苗代での生活をつづけている。
避難所では夜中に 一人でトイレに行けず、おむつが外れるまで時間がかかった。
ぜんそくもストレスが原因になっている。
妻は避難していたころは突然発熱して夜間救急外来受診するようなこともあった。
2011年にはうつ病と診断され、一日中子供と二人で家の中にいて誰にも会わないような生活をしていた。
子どもが幼稚園に通うようになってからは、落ち着いてきた。

完全廃炉まで危ない

居住制限が解除さてもすぐには戻れない。
除染といってもその時は線量が下がるが,まただんだん上がってくる。
廃炉が済むまでいつ新たな放射能汚染が起こるのか分からないので、安心して戻れない。
浪江に建てた自宅は思いが詰まっていて、 簡単に処分する気になれない。
墓は富岡の居住制限区域内なのでお墓参りにも行きにくい。
子どもは連れていけない。
どこでどう やって暮らしていけばよいのか、実家があって、人のつながりがあって生活しているのに、 バラバラにされて当てのない所に一人放り出されたような不安。
子どもにとって故郷は猪苗代になっている。
娘が結婚して独立しても、猪苗代の家で夫婦二人生活していくことになるのではないかと猪苗代に土地を取得した。

南相馬市小高区・Kさん(会津若松に避難)

小高の自宅は3回工事を重ねてできた。
一度目は私の両親と、私たち夫婦で住むということで建設した。
二度目は、絶対にこの土地から離れないと父が言ったから。
その後資金的な余裕ができたとき増築、息子と娘が、就職で同時に戻ってくることになって、彼らのために二階を増築した。
この祖父の代からあった土地を、私の代まで守り続けてきた。
生活する中で様々な人的関係ができた。
事故で家族団らん、大好きな登山もできない。
人的関係もすべて失われた。

地獄のような一間の生活

原発から遠くの南会津町の旅館へ避難し た。
当時小学校5年生、3年生だった孫たちの命と健康を最優先に考えていたからだ。
それまでは、親戚とはいえ知り合いの家にお邪魔し、食事を作ったりするのにも妻は苦労していた。
南会津では、気候の違いと一間での生活に苦労した。
これほどの雪を見たことがなかった。
こんなところで生活ができるのかと思った。
今まで一人に一部屋の生活をしていたのが、私と妻、母の3人で8畳の部屋一部屋で暮らすことになった。
地獄のようでした。
部屋の温度の感じ方一つとっても違うし、見たいテレビも違う。
ちょっとしたことで喧嘩になってしまう。

自宅を建てたから避難は終わりではない

現在、会津若松市に自宅を建設して暮らしている。
借り上げ住宅から出て、うれしい気持ちもあったが、心の底から嬉しかったかといえば違う。
自宅を作るのは、「本来はうれしいことですよね。」なのにうれしくない。
自宅を建てたのは、借り上げ住宅で母が、「こんなところで死にたくない」、「家を建ててくれ、 それでないとおら死んじまう」と言われたからです。
もう一つは老後、娘夫婦の世話になり、成長していく孫たちを見る楽しみもあった。
相馬に家を建てようとして娘に相談したら、泣いて反対された。
娘が言うには、孫たちはようやく会津若松の学校に慣れてきている。
これ以上転校させるわけにはいかない。
会津若松に住んでほしいと頼まれた。
小高に戻りたい気持ちは常にある。
会津若松に定住するかどうか日々迷っている。
なんでこんな悩みを抱えなければいけないのか、といつも 思う。
自宅を新築しても、避難が終了したなどとは到底いえない。

母は小高に戻りたかったろう

母は昨年の 10月3日に亡くなった。
小高で生まれ小高で生活してきたのに、不思議なことに、「帰りたい」と一言もいわなかった。
言うのは「放射能が怖い」ばかりでした。墓参りに一度帰宅したが、あとは郡山より東側には行こうとはしなかった。
母は我慢強く、 耐え忍べる人でした。
だから「小高に帰りたい」とは口にしなかったのだと思う。
そんな母でも、小高の人から電話がかかってくれば 長い時間話して懐かしがり、涙ぐんでいた。

「相双の会」会報に ご意見を
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。匿名でもけっこうです。
電話 090(2364)3613 メール(國分)kokubunpi-su@hotmail.co.jp

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