8月31日(月)原発事故被害者「相双の会」会報40号が届きましたので、転載します。

全国の原発立地の市町村、県は福島を見る必要があると思います。
なぜなら事故以前は原発があるから今の生活が維持できると思い込み、地域経済が発展すると思っていたからです。
しかし事故後は「原発がなかったらよかったのに」と考えるばかりです。

原発のあるところは全国どこでも自然豊かで、それぞれ特産物があります。
福島県浜通りは、南から黒潮、北から親潮がぶつかり合い潮目になっているため漁場に恵まれ、松葉ガニ、平目、ほっき貝が取れ豊かな海です。
原発が出来てから温排水により徐々に海底が汚され環境が壊されてきました。
そこに原発事故で海が汚染されてしまいました。
山、川と全て汚染されてしまったのです。

先日、鹿児島の川内原発が再稼働されました。
再稼働するに当って国は「事故が起きたら国は全責任を持ちます」とぬけぬけと言い放ちました。

福島を見てください。
福島第一原発立地の相双地方は津波で流された方々を原発事故のため救出活動ができないまま避難しなければなりませんでした。
原発事故がなかったら助けられたと思います。
また、病院や福祉施設から避難する途中で亡くなった人も大勢います。
川内原発の「避難計画」などは、何の役にも立たない代物に思えます。
自治体も無責任です。

農地が放射能で汚染して農業が壊滅し、悲観してみずから命を絶った農民もいます。
自死者はいまだに後を絶ちません。
被害者は生活の補償もされないまま、金銭的に追いつめられ、遠くに引っ越すこともできずに、汚染地帯にとどまっていなければなりません。

全ての財産が奪われ、家族がバラバラにされ、地域コミニテイが壊され、二度と元に戻らないのです。
それに、これから何十年と放射能と向き合って行かなければなりません。

原発事故による責任など取れる者などいないのが現実です。
それよりも原発を稼働させない。
全原発を廃炉にすることが最も必要な事です。

I.裁判の概況
支援いただいている避難者訴訟はすでに3年たち 12回口頭弁論を終えました。
改めて現況を報告します。
(1)当事者
原告は第5次提訴まで合わせて189世帯、 総人数587名(0歳から92歳まで)になっている。
いずれも、福島原発事故当時、避難区域であ る双葉町、楢葉町、広野町、南相馬市、川俣町(山木屋地区)などに居住していた住民であり、 現在もいわき市のほか福島県内外において避難生活を強いられている。
被告は東京電力株式会社だ。

(2)請求内容の基本的な考え方は「生活再建、再出発に必要な賠償を!」
一人ひとりの被害者が地域コミュニティから無理やりひきはがされ、人間同士の関係性を断ち切られて孤立し、従来の人間らしい生活とその基盤を根こそぎ奪われ、今後どこに定着して生活したらいいのか見通しもつかないこと、すなわち全人格的被害を受けている。

原発事故は公害であり、加害者と被害者は非互換的で、加害行為には利潤性がある。
そのうえで、広範囲の地域において継続的かつ全面的・深刻な被害を引き起こしている。
しかも、原発事故による被侵害法益は、人格発達権や平穏生活権であり、これまでの差額説的な考え方で扱われるものではなく、このような権利を充足していた社会的諸条件の効用の回復にこそ損害賠償の目的は据えられるべきである。

生活再建、再出発を行なうために必要な賠償、原状回復が図られるべきである。
ただし、訴訟提起以来、時間が経過し、被害者の救済は待ったなしの状況である。
一刻も早い被害者の権利の実現のため、請求項目は、最終的に、自宅不動産、家財、慰謝料に絞っている。

2.裁判所の問題
東電が未曽有の大事故を起こした大罪であるという認識を、裁判官がもっているのか不審でならない。
裁判は被害者を救済するというのが基本的な姿勢でなければならないのではないか。
裁判所は極めて形式主義で、原告世帯ごとの形式的な主張、基本的な書証が整い、それに対する東電の認否、弁済の状況についての確認が出来なければ本人尋問を認めない。

だから、原告側が提出する書面についても、 計算違いや誤記について厳しい。

一方、裁判官による被災地の現地検証は、早い段階(第2回、第3回口頭弁論)から主張してきたが、採用しない。

裁判所の頑な態度には、従来の損害賠償論において、「ふるさと喪失慰謝料」というものを認めたことがないこと、不動産の賠償において再取得価格という内容で損害を評価することが従来の例に反すること、といった考えがあるからと思われる。

いずれにせよ、加害者たる東電と国が勝手に定めた賠償基準で、未曽有の被害をこうむった避難者にあたるという不当を裁判で打破しなければ、「自主避難者」も県外被災者も含めた全被害者の救済はない。

II 第12回裁判(8月19日)の報告
福島原発避難者訴訟第12回裁判が、8月19日に福島地裁いわき支部で開かれ、二人の原告への本人尋問がおこなわれました。
川内原発の 再稼働、楢葉町の避難解除(9.5)など、避難者の神経を逆なでするような悪政が続いているなかで、4年5ヶ月の間、避難者がどういう苦しみを強いられてきたか、法廷で訴えられました。

原発のために母を亡くし父とも離れ離れ
今回は 473名の原告の本人尋問の2回目。
当初3名の尋問を予定していたにもかかわらず、 原告と弁護団の意に反して裁判所側の事情で2名に絞られました。

一人は浪江町の國分一雄さん。國分さんは事故が起きるまでは寝たきりの父親の世話をして浪江町の自宅でくらし、母親は町内の病院に入院していました。
事故で、寝たきりの父親を連れて避難先を探して転々とし、やっと仮設住宅に入れたが、その間父親は連れて行けず施設に あずけ、以降離れ離れになりました。
病院の母親は事故の後、安否もたしかめられず、やっと会津の病院にいることがわかりました。しかし百キロを超える避難行程で肺炎を起こし4月24日に亡くなったのです。
母は亡くなり、父親とも離れ世話が満足にできず、ほんとうに寂しい、くやしいと、訥々と質問に答えました。

夫婦で懸命につくってきたもの全て失う
もう一人は双葉町の石上チカ子さん。
石上さんは双葉に生活費を切り詰めてやっとの思いで旅館を建て、借金をかえしながら3年で何とか やっていける目途がたち、4000万円の借金も返済し、さあこれからというときに、事故ですべて奪われました。

宿は荒れ放題。どうにもならないのだが、それでも時折草むしり、掃除にいきます。
帰れないとはわかっていても、夫婦で人生のすべてをかけて作った、自分の体の一部みたいな宿を見捨てられません。

郡山の避難先の借上げ住宅では、 毎日カーテンをしめて閉じこもり、出かけるのは墓参りだけ。
周りの住民も初めは大変だったねといってくれましたが、何ヶ所か転々とするうちに私達への周りの風当たりが強いことに気づき、今は双葉から来たとも言えず、車のナンバーもいわきから郡山に変えました。
何も悪い ことしていないのにどうしてと、強い憤りを感じます、等々、声を詰まらせながら訴えました。

終了後の進行協議では、原告の本人尋問を、時間をかけかつ迅速にやるよう求め、とりあえず来年イッパイ2か月に一度、期日をいれることになりました。

 
>>PDFはこちらから