なのはな生協

ピースアクション2015長崎代表派遣

7月23日 代表派遣7名で、長崎へ行って来ました。

まず、恵の丘原爆ホーム慰問へ。約80名程の皆さんが、出迎えて下さいました。


歌を、歌ってくださり、感激のあまり涙が出そうになりました。

組合員を代表して、千羽鶴と、カンパで集まったお見舞いを贈呈し、お礼に平和を願う歌と、手作りのお人形を頂きました。

レセプションの後は、坂本トヨ子さんから、被爆体験談を伺いました。
93歳となる坂本さんの口調は、優しく、穏やかでしたが、しっかりと記憶に残っているご家族のこと、辛くとも伝えていかなければならない、と言う思いを胸に、お話される姿が印象的でした。

高齢化が進み、認知症などで、語り部となれる方は、もう3名しかいらっしゃらないという事でした。
次は、日本赤十字社長崎原爆病院慰問へ。
こちらは一般病棟に、「被爆手帳」を持っていらっしゃる方が入院されています。


「上手く話せない」と言いながらも、ご自身の記憶を少しずつ、話して下さいました。
中学生2人が、代表で千羽鶴を送りました。

もう2度と戦争を繰り返してはならない。
その思いを胸に平和公園へ。

平和祈念像は修復中でしたが、ここにも、組合員の皆さんの思いを込めた千羽鶴を手向けて来ました。

 

 

次の日は平和資料館へ。何故、長崎に原爆が落とされたか。落とされた時の様子や体験談など、原爆の恐ろしさを改めて知る事が出来ました。

爆心地、一部が残った浦上天主堂、山王神社なども見学しました。

 【被爆した鳥居】

この鳥居は、1924年(大正13年)10月に山王神社の二の鳥居として建てられたが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により、一方の柱をもぎ取られてしまった。
ここは爆心地から南東へ約800mの距離にあったが、強烈な輻射(ふくしゃ)熱線によって鳥居の上部が黒く焼かれ、また爆風によって一方の柱と上部の石材が破壊され、上部に残された笠木は風圧で反対方向にずれている。
ただ一個の原子爆弾によって、当地区もまた、ことごとく灰じんと帰したが、この鳥居は強烈な爆風に耐え、あの日の惨禍を語りつぐかのように、いまなお一方の柱で立ち続けている。しかし、その後長い年月を経たため、安全性を考慮して柱の基礎部分や接合部分の補強工事を行った。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。
2001年(平成13年)3月 長崎市(原爆資料館)


非核三原則を守り、恒久平和を願う。なのはな生協では、「人のいのちと暮らしを守る」活動を続けて行きます。