なのはな生活協同組合
「福島の現状を知ろう」参加者の声
4月5日に行われた「福島の現状を知ろう」に参加した皆様からのご感想をご紹介します。
今年になり、よく耳にした「あの日から3年」。
しかし被災に関わる報道は徐々に少なくなり、原発事故に関することを聞く度、不安と憤りを覚え、自分に出来ることは?と考えたりしておりました。
そんな折、この案内に家族の勧めもあり参加しました。
現地はどこもかしこも気持ちが沈むものばかりでした。
草丈高く荒れ果てた田畑、生活の匂いはなく、散乱した窓ガラスの破片、はみ出したカーテン、崩れそうな家々が続く町並み、子ども達の声が消えた学校、富岡駅のホームの側の線路に挟まれた場所に草に埋もれるように取り残された1台の車、駅前の線量計の赤い数字だけが生きているような異様さ。
規制区域の住宅地は何所も窓もカーテンも閉め切り、人の営みが消え、誰もいない長く続く桜並木の美しさは余計にむなしさを感じさせているようでした。
真新しい家がありました。小さなお子さんのいる若夫婦の家なのかな?その家族、この住宅の人達は今どこで、どんな思いで、どんな暮らしをしているのだろう?
戻れない3年という長い時間とその日のまま止まってしまった時を同時に感じしばらくは言葉もでませんでした。
バスから垣間見えた道路やビルの壁吹き除染作業は、2~3人で行われていましたが、これで住める町が戻れるのか?
気休めとしか思えませんでした。
原発事故の恐ろしさを実感しました。
被災者の方々からのお話からは、今までカメラを通した向こう側の恐ろしい出来事だったのが、より近いものになりました。
そして國分さんの言葉の端々からは、時々抑え切れない程の憤りが伝わってきて、政治や裁判に携わる人は、皆現地視察し、被災者の方々の思いを聞き、自分のこととして考え、一刻も早く安心、安全、安定の人の営みを取り戻してほしいと思いました。
今はとにかく、自分は今のこの思いを、福島のことをわすれないこと。
どんな形でも被災者の方々を応援する心を持ち続けていこうと思います。
福島の方々が光を見い出せるまでお身体を壊さぬようにと願っております。(Nさん)
東日本大震災、福島、原発事故についての報道が減ってきていることを感じている中で、私自身が「原発事故は終わっていない」ことを再認識し、「福島のことを忘れない」ための2回目の福島視察でした。
よつくら港道の駅あたりは新しい建物も増え、がれきも片付き、少しずつ復興の様子が見えましたが、富岡駅は時が止まったかのようで、1年前と何ら変わらない景色が広がっていました。
新たに作られたモニタリングポストと、どなたかが建てたという慰霊碑以外は・・・。
そして、サーベイメーターの値は、そこに変わらず放射能があることを物語っていました。
富岡駅近くの、津波で被害を受けた家の一つに、片付けに来たような形跡がありました。
原発さえなければ早々に自宅に戻ることができ、あたりはもっと復興していたはずで、その家に住んでいた方々のお気持ちを考えると、改めて放射能が残した爪痕の大きさを感じました。
オリンピック招致レースが盛んな頃、「放射能の不安を理由に東京が落選すれば、原発のことをもっと考えてくれるのでは・・・」と思ったことがあります。
住み慣れた場所を追い出され、避難生活を続けている方が依然として存在するのに、一生を台無しにされた方が沢山いるのに、命より経済を優先させる状況はどうしたら変わるのか・・・。
帰宅してから、福島の新聞社の方が書いた、被災地に関する記事を偶然見つけました。
「福島県は地震、津波、原発事故に加え、風評被害と風化の五重苦に見舞われている」という言葉が目に留まりました。
地震・津波という過去は変えられなくても、これ以上の原発事故を防ぎ、風評被害と風化をこれ以上大きくしないために行動することはできるし、していきたいと思いました。(Kさん)
学生時代の友人が福島県だけでなく宮城県など東北地方に多数います。
震災当時なかなか連絡が取れず、安否確認ができない状況が続きましたが、連絡が来たときはとても安心したのを覚えています。
しかし、津波の被害で自宅は住める状況ではないと聞き、そのような状況であることはわかっていることでもありましたが、何とも言い難い心境でした。 身近な友人が被災しているので、この震災は何か他人事ではないような気がしていました。
今回、福島視察があると聞き、同じ東北地方の状況をこの目で知ることができればと思い参加させて頂きました。
震災から3年が経過しているので、当時の状況をどこまで感じ取れるかと思っていましたが、頂いた資料などと比べてみると何も変わっていないことに複雑な気持ちになりました。
誰もいない町の異様な空間、洗濯物が干しっぱなしの家、被災地は時間が止まっていました。
この震災は他人事ではないと思っていましたが、ここまで人の気配がないと映画のセットのようで、何かを感じることが難しく、他人事のように思えてしまったこともありました。
それくらいすべてを奪ってしまったのが、今回の震災だったのかなと思いました。
また、現地の方のお話を聞き、当時の状況や現在の避難生活の状況など、メディアでは報道されない部分を知ることができたことは貴重な経験となりました。
今回、印象に残った光景があります。ちょうど桜の季節でした。桜は人の心を温かくすると思っていましたが、誰もいない町に咲いた桜はむなしく感じました。被災地は時間が止まっているのではなく、ただ時間だけが過ぎていました。あの桜が被災地の方たちの心を温める、そんな日が早く来ることを願います。
福島視察を企画して頂いた、なのはな生協さん。ありがとうございました。(Hさん)
昨年に引き続き2回目の参加となりました。1年ぶりに目にした光景は、「復興」には程遠い、昨年と変わらない残酷な光景でした。
原発事故から3年が経過して、福島第一原発関連のニュースを目にすることが減っていると感じます。
停電、ALPSの不調、汚染水問題、死亡事故、どれもほんの少しの間だけニューストピックスに上がっていますが、すぐに他の話題に切り替わります。
原発事故関連の報道はタブーになりつつあるのかと感じるほどです。
今回、國分さんをはじめとする原告団の方のお話を聞けたのは本当に良かったと思っています。
震災当日の避難開始の状況、国や東電からの情報が全くなかったとの驚きの事実。
子供の時、原発建設予定地へ遠足に行き「ここに原発が建つんだよ。安全なすばらしい発電所なんだよ。」と教えられて以来、疑うことなく生活を続け、まさに避難しながらも「まさか爆発するわけない」と考えていたというお話。
3年間で9回も転居をしなければならない状況。心に不調をきたす家族。見ず知らずの土地に移り、家の中でテレビを見るだけの毎日。
原発事故がなければ、こんな目に合う事がなかったはずというお話を当事者の方々からお聞きし、重く受け止めなければと心から思いました。
私の母が「戦争に勝っていると教えられていた。ずっと信じていた。敗戦の日、大人が泣いているのを見て、唖然とした」と言っていたのと同じなのだと思いました。
だまされるものかと、原発は絶対ダメだと、非力ですが伝えていきたい、私に何ができるか考えて行きたいと思いました。(Oさん)
(完)
「福島の現状を知ろう」~福島視察~
4月5日、福島第一原発事故から3年が経過した福島の現状を自分自身の目で確かめるために、総勢49名で向かいました。
昨年は、2年が経過した福島の現状をまずは自分の目で視て、周りの一人でも多くの方に伝えていただきたいとの想いで決行しました。
参加された皆さん其々が報道では知り得ることの出来ないものを目にし、話しを聞いたことにより自分自身が行動に移していかなければとの感想をお聞きしました。
今年は2回目の福島視察です。世間では、原発事故は風化され、福島で暮らす方や福島から避難されている方の生活は置き去りにされているのが実情です。
参加された組合員さんは、原発事故以降の福島を視るのは初めてという方、または昨年の視察から1年が経ち、自分の目で確かめた福島がどのように変わっているのかをまた視たいという方々、今年は奥様もご一緒にという方など更に広がり、関心をもって参加していただきました。
道の駅よつくら港で、原発被害者相双の会会長の國分富夫さんのガイドにより、バスは北上。
まもなく大量の除染廃棄物が見えてきました。中間貯蔵施設は未だ決まらず仮置き場です。
昨年までは黒い大きな袋の連なりでしたが、更に増え、その異様な光景を隠すためか今年は緑色のシートで全てが覆われていました。
富岡町に入りました。昨年3月25日までは、警戒区域であったため立ち入り自体が禁止されていましたが、視察の10日前に解除され昨年も立ち入ることが出来ました。
今年は、夜の森(よのもり)まで行くことができ、きれいな桜が満開でした。
2.5kmの道路の両脇に約400本の桜の木が並んでいます。
昨年の避難区域再編で桜並木全体の約300mが立ち入り可能となりましたが、大半は帰還困難区域に入りバリケードで仕切られ、その先は進むことは出来ません。
3年前までは、夜もライトアップされ有名な桜の名所だったそうですが、原発事故後は全町避難となりました。
それでも桜は毎年きれいな花を咲かせています。住んでいた方の無念さが伝わってくるようでした。
引き返し、富岡駅へ。避難指示解除準備区域であり、立ち入りは可能ですが宿泊は禁止されています。
モニタリングポストが設置され空間線量は0.36μ。途中、除染車は見かけましたが、景色全てが昨年と何も変わらず、時が止まっているようで現実味が感じられませんでした。
いわき市の施設で國分さんご夫婦、福島原発避難者訴訟・相双の会原告団の杉さん、上田さんの原発事故当時から現在に至るまでのお話をお聞きしました。
津波から逃れ、放射能から逃れと何度も何度も避難を繰り返し、3年前のことであっても現在進行形のため、優しい口調ですが淀みなくお話は続きます。補償も充分ではなく生活再建の目処も立たず、ご家族も心身共に疲れ果てています。
苦悩はいかばかりか計り知れません。「頑張っていれば、必ず勝つ!」國分さんは力強く話されました。
福島原発事故から3年が経過しましたが、素人目にも収束の気配は全くみえません。
復興さえもみえません。
それなのに鹿児島では川内原発再稼動の話が持ち上がっています。
函館市では、青森県大間原発から30km圏のため事故があれば市民には逃げ道がないと建設差し止め訴訟を起こしました。
なのはな生協では、これからも原発事故を風化させず、原発はいらないと訴えていきます。
そして、福島から避難されている方や福島で暮らす方を支援していきます。
安心して暮らせる社会をめざし、一緒に活動していきましょう。
ご理解ご協力をよろしくお願いします。
なのはな生協 副理事長 勝俣