なのはな生協

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菜花と豚バラの味噌マヨ炒め

独特の香りの菜花。旬のお味をいただきます。

やさか味噌大さじ1、めんつゆ小さじ1、粗製糖小さじ2、マヨネーズ小さじ1、味の母小さじ1、玉絞りごま油小さじ1、根しょうが1片すりおろしを混ぜて、調味液を作っておきます。
菜花1束は熱湯で茹でて、冷水にさらし、水気をしっかり絞って食べやすい大きさにカットします。豚バラスライス5~6枚は食べやすい大きさにカットした後、塩コショウし、片栗粉を軽くまぶしておきます。
フライパンに油をひき、豚肉を炒めます。火が通ったら調味液を投入し絡めます。火を弱火にして菜花を加え、塩コショウで味を調えたら完成です。
お好みで白ごまと一味唐辛子を。


ビタミン豊富な季節の野菜をひと手間かけて美味しく♬♬♬

こども食堂からべえ1/9

1月9日成田市加良部ショッピングセンター内「こども食堂からべえ」開店日の様子です。

2021年初めての開店日でしたが、緊急事態宣言が発令されたため、テイクアウトオンリーとなりました。

この日のメニュー

容器に詰めて来訪者へ渡しました。この日は66名の訪問がありました。

 

近くの公園では

次回もテイクアウトオンリーの予定です。

 

相双の会 会報104号

原発事故被害者「相双の会」会報104号が届きましたので、転載します。


2020 年大変お世話様になりました。 今年もご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。

昨年は、新型コロナウイルス禍で、日本は如何に基盤の弱い国であることを露呈しました。
国民の大半が働けど路頭に迷い、安い賃金から所得税、消費税など、とことん持っていかれていま す。

福島原発事故への責任も取らず被害者を追い詰めています。
除染土壌の公共事業再利用、帰還 困難区域の除染抜きの解除、トリチウム海洋放出が安全な根拠が何処にあるでしょう。
危険だか ら除染した危険物土壌をどうして公共事業に使うのですか。
原発事故関連裁判が、高裁判決で、国・東電に責任があると断罪された。
当然今後の高裁判決も 国・東電の責任が明確になるだろうと期待します。

私たちはこれからも「原発のない安心して生活できる平和な社会」のために訴え続けますので より一層のご協力をお願い致します。

連帯メッセージ 3.11 から 10 年 東海第2原発再稼働止めます
茨城県ひたちなか市 荻 三枝子

3.11 からもうすぐ 10 年。
良かったこと、原発事故当時民主党政権だったこと。
もし、あの時安倍や菅の自民党内閣だったら、 東日本は壊滅していたことだろう。

安倍晋三の原発に関する発言を拾ってみる。
2006 年 12 月 13 日、吉井英勝衆院議員の「巨大地震発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民を守ることに関する質問主意書」 に対して、安倍は海外と日本の原発は違、非常用発電機など、二重のバックアップ電源が喪失するとは考えられないとして、対策を講じなかった。
2011 年 5 月 20 日のメルマガでは、福一原発事故における海水注入について、菅総理が止めたと嘘を発信し、退陣を要求した。

安倍の政策を継承するという菅。
何の反省も考えもなく原発再稼働に邁進している。
このような中で、女川原発の再稼働は、議会、県知事によって容認された。
東海第二原発も このことは対岸の火事ではない。
11 月に行われた日本原電の説明会では、再稼働ありきだった。
質問は、広域避難計画が多く、30 キロ圏に 94 万人 が住むこのような地に、原発を建設すること、まして福1の過酷事故後に再稼働など考えられないと主張。

県内の様々な市民団体は各自治体首長への申し入れや地域でのニュースの配布など広範囲に活動しているが、そもそも防災対策を講じなければ公衆のリスク軽減ができないような施設は作るべきではないし、まして再稼働など許されない。
原発ゼロ社会を目指して、ともに頑張りましょう。

 

原発事故から 10 年―動物除けの花火持参で散歩の日々
南相馬市小高区 佐藤周一

小高区の避難指示解除から約 1 年後、自宅を リフォームし、意を決して帰還しました。
事故前に 22 世帯あった我が行政区は帰還した世帯は 3世帯のみで、増加するみこみは全くありません。

事故前の行政区排水路の掃除、農道の草刈り等共同作業、新年会、花見、神社例大祭などの交流事業は全く行われなくなってしまいました。
先祖代々引き継がれてきた行政区内での輪番制一忌頭制度(葬儀時の世話人)も今年から廃止になりました。行政区長の選出も大変です。

自宅の目の前は水田風景が広がっていましたが、今は除染廃棄物の仮置き場と化し、フレコンバックが積み上げられ、部落内には重機と大型トラックの騒音がむなしく聞こえます。

帰還後も老犬の散歩を続けていますが、時々 猿やイノシシの群れに遭遇します。
特に猿の群れには恐怖を感じ、狩猟免許者から頂いた5連発花火を持ち歩いて散歩します。
このように 人々が住まなくなって動物が繁殖しています。

共同墓地では遠距離へ移転した世帯では墓仕舞いをし、墓を移転した世帯もあります。
このようにこれまで築き上げてきたコミュニ ティ、扶助精神、共同作業(人足)等が失われ、 老人世帯だけが残る限界集落から、集落の消滅 に陥るのではないでしょうか。

私の行政区の津波被災世帯は、すべて他区へ移転しました。
東電は「小高区域津波被災世帯 が原発事故避難指示解除により小高区域内に帰還しない大きな原因は津波被災の影響が大きいからである。」と主張しています。

しかし小高の沿岸集落の人々は以前からいくつかの大きな水害にあいながらも先祖代々の農地を守り、生活を築いてきたのです。
沿岸周辺の移転者に聴取すると、「津波による災害だったならば、南相馬市で計画した小高 区域への集団高台移転区域事業計画に賛同し地元への移転を考えた。小高地域から移転した理由は放射能が怖いから。
原発が近く再度爆発しないか不安だから。」なのです。
結果的に集団高台移転事業計画は成功しませんでした。
今後もこのような状況の中で原発事故によるコミュニティ喪失、人生を破壊してしまった大罪が、司法の判断で正当に裁かれることを強く訴えつづけます。

 

小高区の猪の群れ

 

10 年を振り返って―不条理は許せないと裁判に
浪江町出身 大塚 智

一言で無我夢中の 10 年です。
3月 11 日の大地震、原発事故、家族6人で車中泊を皮切りに西へ避難行、福島の学校へ二泊、14日の3号機の惨状を見て柏崎市の妹宅へ逃げ込みました。
孫たちの高校入学など難題続出でしたが、本人たちの頑張りを見て応援を覚悟しました。

大熊から原発のある柏崎への移転。
その大雪を見て再事故を想像し心配の連続でした。

その後一連の学業も終え各々巣立ちが出来 安堵しています。

そして6年半、息子達とやっと郡山市に居を構えました。
早 10 年です。気付けば老々です。
最も充実した時間であったにもかかわらず、強制避難とは軋首そのものです。
仕事の継続はおろか事務所にすら二度と戻る事も出来ず、昨日までの「業」は断切られたのです。
正に絶望の一言です。その後弁護士と相談、これが私の裁判闘争のはじまりです。

いわき地裁判決から控訴し仙台高裁と二度の意見陳述、毎回の裁判傍聴で被告(東電)弁護人から「お金は上げたでしょう、賠償金も払って上げたでしょう」的な言動と態度には心底憤を感じました。
東電は不服として最高裁へ 上告。
その理由説明には許し難くますます闘志が湧き上がりました。
未曽有の大事故を起こし誰一人責任も取らず、不条理は承諾できません。

一方政治責任もあります。
原発を国策として、 この世で最も危険な原発を進めてきた責任である。
安倍総理は再三来町して「東北の復興なくしてあり得ない」と言いながら「除染」「除染」と言い帰還を訴え叫んでいましたが、避難 解除後三年経ても住民帰還は8%程度であり、 帰還拒絶は 55%に及ぶ。
まさに「笛吹けど踊らず」、町民は恐れおののいています。
この事実をどう思い説明するのか是非聞きたいものです。

安倍総理は五輪 IOC 総会で全世界に向けて、 最終プレゼンテーションで放射能汚染水は完全にブロックされていると嘘を言ったのである。
現実はそれどころでない。
原発事故を覆い隠すようにコロナ禍で自殺者が多発、特に女性の多さが危惧されています。
雇用不安をはじめとして貧困で苦しんでいます。


大塚智さん宅の跡

 

声を出し続けましょう
南相馬市原町区 大森照夫

私が、青年時代に双葉地方に行き、原発の危険性を地権者の皆さんに広げようと廻り、 賛成者の方から「斧」で追いかけられたりしたが、その「福島原発」が世界でも最大級の事故を起こしてしまいました。
原発は、「交付金」と言う「毒饅頭」で地元の声を抑え、「安価で安全で安定な発電」とうそぶき、東京で使う電気を発電して来たのです。
「安全神話」が崩れた「原子力発電」ですが、 政府は懲りずに、手を変え品を変えて「原発の再稼働」を進めているのは何故なのでしょうか。
そしてまた「30 年以内に放射能のごみは県外へ」の約束を反故にし、「除染土壌の再利用」 で地元に埋め戻し、有効性が疑問視されていた「凍土壁」でさらに増え続けた汚染水は、他の放射性物質も多く残っているにも関わらず、 「トリチウムは自然界にも存在するから海洋放出が現実的」と公海さえも汚染しようとしています。
「薄めて流せば大丈夫」と言われてい たが、自然界の生物たちが濃縮することによっ て有害性が飛躍的に高くなることが明らかになったのだ。

そうなると水俣病を経験した私たち日本人にとってみれば、「トリチウムは自然界で有機化するのだから、流してはいけない」となるはずだった。
ところが多くの人々が知らないことをいいことに、海洋放出しようとしているのだ。

それに対して漁業者団体は理解を示しつつあると報道されたが、公聴会での参考人の人々はみな反対だった。

「福島原発事故」処理は、全て国民の血の滲むような税金を投入し、被害者をそっちのけに住民を分断し、避難者は心の拠り所とふる里を失い、10 年経った今、何が残ったのでしょうか。
年間1m㏜や 20m㏜と数字を並べ、子どもの 「甲状腺がんは事故の影響でない」と言い切り、 原発事故の責任を未だに誰一人負わずにいます。
低線量被ばくの影響、私たちの生活は「放射能への不安」があと何十年も続き、孫子の代まで負の遺産を残すことになりました。
原発事故を一般の災害と同じように 10 年で区切りを付け、オリンピックで完全に日本は克服したと言いたい政府の姿は見え見えです。
この汚された大地そして奪われた健康で安心して暮らせる生活を取り戻すには、それぞれがそれぞれの場所で《声》を出し続けなければならないと思います。

 

原発事故でふる里を奪われ―1頁でも戻す事が出来れば
双葉町 小川貴永

東北大震災が発生し福島原子力発電所から出た放射線により双葉町から避難してもう 10 年も経とうとしている。
震災発生当時、養蜂業を営んでいたが現在も養蜂場はゲートが張られた帰還困難区域になっており今後どうなるか分からない。

自宅は国道6号線の寺内前信号の近くだったが泥棒による盗難、イノシシやハクビシンなどの野生動物に侵入され荒廃し2年前に撤去する事になり私の自宅だけではなく近所の家も解体撤去し周辺は空き地になってしまった。

双葉駅は令和2年3月 14 日常磐線が再開された、双葉駅近くの初發神社は震災で傾いていたが専門業者に依頼し放射線の測定や除染改修工事を行い 10 年掛かって神様にお帰り頂きました。
双葉駅と初發神社以外はほとんど空き地です。
これが復興やイノベーションと言われるものの現実です。

伝承館というものが出来ましたので入場しましたが、何がテーマかわからず原子力発電所の被害で自治体が壊滅し人々の人生をダメにしてしまった重さがありませんでした。

私の祖母、父親、は避難から双葉町に帰る前に亡くなり、私の長男は 1 歳で次男は生後半年で避難しもう小学校の高学年ですが双葉町など分からないでしょう。
故郷をなくすことは伝統文化、地域の人間関係、私が通った双葉北小学校、双葉中学校 双葉高等学校を無くしました。
これらは本当に重い罪です。

原発事故は私の人生のほとんどを奪ってしまいましたが 1 頁でももとに戻したいと今は 思っています。
その思いこそが今の私を生かす活力となっているのです。


神様だけが帰還した初発神社

ご意見のお願い
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。
◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com

 

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2020年最終配達日

12月30日 本日は2020年の最終配達日です。寒さの少し和らいだ雨の朝となりました。

今年一年、ご愛顧いただき誠にありがとうございました。

無事に配送車両全台出発いたしました。

2021年も変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

こども食堂からべえ12/26

12月26日 成田市加良部ショッピングセンター内「こども食堂からべえ」開店日の様子です。

2020年最後の開店日。ボランティアスタッフによる準備が始まります。

新型コロナ患者数が増加していますので、対策を強化しました。

メニューです。

48名の訪問がありました。

ゲノム編集トマト緊急抗議行動

12月23日に行われた、東京都港区虎ノ門にあるサナテックシード社前での、ゲノム編集トマト緊急抗議行動の様子です。

12月11日に日本初のゲノム編集食品である高GABAトマトの届け出が厚労省で受理されました。

同社は、家庭菜園用にこのトマトの種苗を無償配布しています。

これは、その即時中止を求め、ゲノム編集に反対するアピールです。

初めに遺伝子組み換えいらない!キャンペーン代表の天笠啓祐氏から、ゲノム編集食品の危険性や、国が安全審査なしで流通許可を出した問題点などを話されました。

ゲノム編集の表示が無いので、その危険性を知らずに家庭菜園で栽培して食べたり、交雑したりすれば、消費者の健康が脅かされることになります。

なのはな生協としても、今後、ゲノム編集反対や署名活動に取り組む予定です。

組合員の皆様のご協力をお願いいたします。

かぶステーキ

みみずの会 菅澤さんの農場のかぶをソテーしてみました。
かぶは皮ごとよく洗って1cm程度の厚さにカットします。熱したフライパンに今井のごま油大さじ1をひき、かぶに焼き色をつけます。
火を弱めふたをして4~5分、火が通ったら丸大豆醤油大さじ1を回しかけて完成です。

香りづけに黒コショウを少々 葉ねぎをちらして彩をそえてみました♪

こども食堂からべえ12/12

12月12日 成田市加良部ショッピングセンター内「こども食堂からべえ」開店日の様子です。

クリスマスツリーがお出ましです。

ボランティアスタッフによる準備が始まります。

この日のメニュー

88名の訪問がありました。


白菜とお揚げのくたくた煮

甘みが増してきた白菜を使ったレシピです。
白菜1/4個は葉と芯に分けて葉はざく切り、芯は細切りにしておきます。油揚げ3枚は短冊切りにしておきます。鍋に水200cc、丸大豆醤油大さじ1、味の母大さじ1、和風だし一番小さじ1、粗精糖小さじ2、塩少々と白菜の芯を入れて火にかけ、沸騰したら葉と油揚げを加えてふたをして10分程度煮ます。ふたを開け、かつおパック1袋を加えてさっと混ぜ合わせたら完成です。

すぐに作れる、体に優しいおかずです。

相双の会 会報103号

原発事故被害者「相双の会」会報103号が届きましたので、転載します。

平和だった小高町(現南相馬市)

小高町は阿武隈山脈を背に太平洋が広がる豊かな自然を満喫できるところである。
田舎暮らしをしたいと都会から移住する方が徐々に増えてきていた。
神奈川県藤沢から早期退職して小高町へ移住してきた方と、既に退職し野菜作りに挑戦し軌道に乗っていた私は、偶然にもお会いして意気投合、毎日のように話が弾んだ。

小高町は工業、漁業の町でもない農業の町に私たちは生まれ育った。
決して豊かな町でもなく、それでも親の代からお互いに肩を寄せ合い生活してきた。
農業は稲作、畑は葉たばこ耕作、有名になったのは金房大根だった。
それに果樹園も盛んで梨、リンゴが主なものでした。
長男は家督継承、その他の殆どは都会へと就職である。

東京、神奈川、埼玉に叔父さん叔母さんが居るのは普通だ。
地元に残って職人になる人もいた。
街中の人たちも同じで長男は商業の跡を継ぐ、他は都会へ就職である。

このような田舎町でも 1975 頃から大型店舗が入り始め一変してきた。
農業も大型化され稲作は食管制度撤廃で五~六反百姓では生活できなくなり若い人は企業等へ就職し、農業は日曜百姓で高齢者は田畑管理と孫育て、家族と助け合い、地域コミュニティがつくり上げられ、正に遠くの親戚より近くの他人である。
以下は、そういうふるさとを剥奪された友人のことです。

人生そのものが奪われ、悔しくて悲しくて私の友人佐藤まさおさん(匿名)は長男でもあり、親からの家を継がなければならない運命にあったであろうと推測されます。
大工職人の修行に入り押しも押されもしない職人となり、事業者として数名の職人を使い棟梁を発揮してきた。

そろそろ年齢的にも余生を楽しみたい矢先に東日本大震災が発生。
経験したことのない大地震の中、私はたまたま、まさおさんの家へ遊びに行っていた。
東北電力の送電線の鉄塔が立っていた。
その鉄塔が倒れるのではないかと思うほど大きな揺れ、まさおさんの家族の無事を確認してから一目散に家へ戻りました。
その後はまさおさんとは音信不通となり、しばらく過ぎてから新潟に居ることが分かった。
そのころ私は若松市に避難し比較的新潟は近い事もあり、新潟市内に多くの方が避難していることを聞き、何とか皆さんとお会いしたいとおもい、新潟市議会議員であった小林義昭さんをご紹介され、お世話いただき、久々にお会いすることが出来ました。
まさおさんご夫婦も来ていただき元気な姿を見て安心しました。
それからは頻繁に電話のやり取りを繰り返してきました。

まさおさんは高齢のお父さんも一緒でありました。
原発事故前は健康な人でしたから自分のことは自分で、一切手がかからなく、隣のお友達とお茶をして老後を楽しんでいるようでした。
原発事故後は避難先を転々した事もあり、自分の居る場所が分からなくなりトイレが大変、医者へ行っても福島の浜通りと新潟の言葉の違いもあり、しゃべらなくなり99 歳で永眠しました。

まさおさん自身も体調が崩れ避難先から自宅に行くには多くの山越えをしなければなりませんので日帰りは無理で、南相馬原町区のホテル等に一泊していたようです。

私の避難先会津若松市へ自宅へ行った帰りに寄って頂きました。
私の避難していた家の玄関先は6段ほどの階段がありましたので「階段は登れない」とそこへ座り込んでしまいました。
その時相当に苦しいのかなと思ったが、それでも故郷へ帰りたい一心であきらめもせず頑張っている姿を見て、涙があふれんばかりでした。
あの時 が故郷へ帰ったのが最後かも知れません。

根っからの職人魂で全て一から開拓し家族 を守り通した。
どんなに苦しくても筋を通しあきらめない方でありました。

避難先・新潟で病魔と闘った日々

震災前から COPD(慢性閉塞性肺疾患)の診断は受けた。
その時、酸素等は使用せず、苦しくなりながらも何とか生活していた。
2014 年(平成 26 年)6 月体調を崩し新潟で入院、 7 月呼吸器機能障害の診断を受け、在宅酸素になる。
その後は入退院の繰り返し
2018 年(平成 30 年)1 月肛門から出血するようになる。

11 月7日、直腸がん、肝臓に転移あり。
余命6カ月と告知される。/11 月末、人工便の手術を受けるが、酸素をしているため全身麻酔ができず局部麻酔での手術となった。

2019 年(令和元年)9月、がんの影響で排尿が困難となり、チューブを入れた。

2020 年(令和2年)4月、余命1カ月の診断。/4月末、肛門から大量に出血があったが、何とかとまった/6月末、再び出血/8月、食欲も無くなってきた/8月末、出血がとまらなくなり、救急車で病院へ入院中輸血3回/9月7日、担当医から説明があり、できる治療は全てしたと言われ、緩和ケアの出来る病院への入院をすすめられた/9月9日、自宅から歩いて3分程の緩和ケアができる病院へ転院した。コロナ禍での影響で面会もできず、携帯電話でのみつながっていた/10月、相変わらず、出血がとまらない。肝臓にも転移しているため、がんの痛みもあるが体のだるさが強かった/10 月21 日、入院して1カ月半、やっと初めての面会が出来た。だいぶ痩せていた、全身に黄疸が出てきていた/11月2日、2回目の面会が出来たが、以前より黄疸がひどく、会話もほとんど出来なく、反応もあまりなかった/11 月6日、早朝、5時半頃病院から血圧が下がってきたと 連絡があり、病院へ向かった。心臓は動いていたが反応はなく、目は見開いたままだった。
家族が病院に着いて、1時間程で静かに永眠した。76 歳だった。
原発事故がなかったらまだまだ元気でいられた。
地域での助け合いも出来たであろう。
最後は家族に看取られるのが当たり前のことであるが、コロナ禍でそれも出来ず一人旅立った。
原発が憎い。
原発がなかったらふる里で家族と共に終活できたはずである。
それが見知らぬ避難先でこの世とお別れとは情けなく悲しくてやりきれない。

東京電力はまさおさんのご遺族にも冷たい仕打ちをしています。

次に連れ合いさんのお手紙を紹介します。

まさおさんの連れ合いさんの訴え
主人は自分で家を建て、両親と一緒に暮らす、それが家族の夢でした。
そのために小高に義理の両親が五反の土地を求めていました。
そこへ息子が家を建て、瓦職人であった義父が瓦を葺く。
井戸を掘り、基礎から手をかけ、家族の願いが詰まった特別な自宅でした。
東日本大震災にも耐えましたが、自分たち地域全体避難命令が出るとは夢にも思いませんでした。
死にもの狂いで避難を転々しましたが、そんなに長くはないだろうと思いながらでありました。
それが何と 10 年になろうとしています。
自宅のことは常に頭の中にありました。
苦労して建てた家の周りは次々と解体し更地になっていく、空き家となって10 年ともなると廃屋となり住める状態ではなくなります。
それでも故郷へ帰りたい思いがあり決断できないまま亡くなってしまった主人、原発事故はお願いしたものでもなく、原発をつくってくださいとお願いした訳でもありません。
私たち被害者の願いを100%叶えるのは当たり前のことであると思います。
それが、「国が無償で解体するには期限がある」と言われてしまいました。
その間にも義父が亡くなり、夫も次々と病魔に襲われていくなか、それでも何とか決心し、すでに解体の申し込み期限は過ぎていましたが、東電にも相談しましたが「期限が切れているから出来ない」「自費で解体するしかない」と言われてしまいました。
「なぜ自費で解体なの」と言ったところ「あなたのところばかり国民の税金を使うわけにはいかない」と言われ、でもなぜ東電にそこまで言われなければいけないのか、国民の税金を使って解体してほしいと言った訳でもない。
家族みんなで唖然としました。
東電に何を言っても聴いてもらえないと夫は思ったようです。
そんな時、夫に癌がみつかり、余命6カ月と言われ途方にくれました。
それでも私や娘たちの幸せを見届け、孫との交流を楽しみながら6カ月と言われた命を2年、家族のために頑張ってくれました。
私たちは「ありがとう」の言葉しかありません。


南相馬市にある佐藤さんの自宅。現在廃屋だが多額の解体費用がかかるのでそのままになっている。

「ふるさと剥奪」とはなにか
立教大学社会学部 関 礼子

「故郷喪失」という被害は、避難が終わればなくなると見られがちだが違う。
こうした誤解を避ける為「ふるさと剥奪」という言葉を使いたい。
避難指示が長引いている帰還困難地域ではふるさとは奪われたままだが、指示が解除されても取りもどせるわけではない。

川俣町の山木屋地区は 2018 年初の帰還率は 30.1%で当時解除されていた地域の平均帰還率 15.3%からすれば復興は進んでいるように見える。
帰還率は「復興」の指標のように見なされるが実際はちがう。

本来の復興はふるさとを取り戻すことだが、「人と自然のかかわり」「人と人のつながり」「その持続性への願い」というふるさとの「三要素」は剥奪されたままだ。

2012 年度の地区の幼稚園児、小学生、中学生の合計は 86 人だったが 17 年度は 30 人、18 年度は 15 人、19 年度は小学校は休校、中学生のみ3人になった。

帰還した方はこう言っている。
「戻った・ 戻らないで対立し、戻った人も余裕ある・ないで対立した。そんなんだから、戻った人もここがふるさとにならない」。
「国は『うちに戻ったからいいんじゃないの』というんだけど、やることないのが一番辛い。

作物作って仕事の喜びがあればいいんだけど、それもない。
毎日流れていくだけで何のやり甲斐もない。
ただ老いて行くのを待つだけ」。

帰還者が復興を実感できてないだけでなく、多くの経費をかけている復興事業は人々のレジリエンス(回復力)をサポートするような筋道を描けず人々は置き去りにされている。

山木屋の帰還全世帯へのアンケート(約半数が回答)では「復興事業の成果が出たことを実感できている」と思う世帯は1世帯だけ。
「思わない」が41 世帯、「わからない」が 4 世帯だ。

復興事業の失敗のリスクが支援対象の個人に転嫁されることもある。
生業の再建を謳うものもあるが、必ずしも風土に適した持続可能なものではない。
幼稚園、小中学校の校舎整備をしても児童・生徒がいるのか。
復興事業という新たな「復興被害」を抱え込むようになった。

「ふるさと剥奪」とは不可逆的な被害だ。

「避難」と「ふるさと剥奪」を混同すると、現在進行形の被害は見過ごされ、原発事故から教訓はひきだせない。
被害と加害を明確にし未来を構想していこう。

11 月 11 日に開催された原発事故全国弁護団主催学習会での講演要旨です。
文責は「相双の会」事務局。
関礼子さんは裁判で参考人に立ち「ふるさと剥奪」を訴えています。

ご意見のお願い
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せ
たいと考えています。匿名でもけっこうです。◇電話 090(2364)3613
◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com

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