原発事故被害者「相双の会」会報87号が届きましたので、転載します。

避難解除区域の実態を告発
7.12 仙台高裁での証言(抜粋)

2012 年に避難者が東電を相手取って損害賠償を求めてから6年目の昨年3月 22 日に福島地裁いわき支部の不当判決が出されました。
それを不服として原告団は仙台高裁で闘いを続けています。
7月 12 日に行われた高裁での証言の要旨を紹介します。

医療体制が不安で帰還できない

Sさん (相馬市小高区から避難 会津若松に居住)

息子は、南相馬市の職員をしていたので、 業務に従事するため、遠方に避難できませんでした。
それで当初は市役所に寝泊まりして、 その後原町区にアパートを借りました。
・会津若松の現在の自宅は、避難後新築しま した。母は、「アパートで死ぬのだけは嫌だ」 と常々こぼしていましたので新築にするつも りでした。

私としては、会津はあくまで仮住まいのつ もりでした。
小高に帰還するかどうかいまも 迷っていますが、時間を経て、帰還するのは 難しいのかなという考えでいます。

現在小高の人口は 3500 人ほどと聞いてい ます。
1万3千人ほどいたかと思いますので、4分の1程度です。
6月に行きました。
高齢者が多く若い人や子どもはあまり見かけません。
自宅の近くの家は残っていて多くはリフォームしているのに、戻ってきていない。
水道屋さん、お茶屋さん、鮮魚店、自転車屋 さん、皮膚科医院など皆開いていません。

小高区で現在営業している病院は、市立小 高病院、あとは内科、整形外科、最近歯科が 開業したと聞いています。
内科の先生は急死 されたので、病院は継続できないのではないかといわれています。
市立病院は入院設備は ありません。
また、設備も非常に不十分で、 レントゲンを撮影する機械が壊れていて撮影できないと聞きました。

小高に帰郷したいのですが帰る気持ちになれないのは、医療体制が不十分だということです。
もう 70を超え、定期的な通院もしています。
いつどうなってもおかしくないと思っています。
そんな私が急に倒れたりしても、 小高病院はじめ周辺の病院では、対応出来ないことがたくさんあると思います。
最近、小高に車で行ったとき、原町区のホテルに宿泊していたのですが、急に胸が苦しくなり、病院に行くことにしたのですが、付近に対応出来る病院がないということで鹿島区まで赴きました。
避難指示が解除されても、町は修復不能です。
私の同級生も近所の人たちも亡くなりました。
戻っても、知り合いがいないのです。
私たち が、何十年にもわたってつきあってきた人たちのつながりが戻って来ないのです。
それがないのに、戻る意味があるのかと思います。

 

避難解除の実態は
Kさん (楢葉から避難 いわき市に居住)

帰還者の心労

楢葉町の発表では、半数近くの住民が居住しているというのですが、避難先との二重生活をしながら、週に4日以上帰宅している滞在者もカウントされています。
事故前は中学校が1つ、小学校は2校あったのが、3校が1か所に集められて1つの敷地に3つの小中学校があります。
双葉郡管内には5校の県立高校がありましたが全部休校(閉鎖)になり、 統合されて広野町に開設された「ふたば未来学園」になっています。
帰還しても、自宅から通える高校はなくて広野までの長距離通学しか選択肢がない。
町の唯一の内科が再開しているが、薬局は閉鎖したままで、お薬は隣町まで行かないともらえません。

帰還している方には、東電の社員、町の職員さんなど「戻らざるを得ない」方がいます。
先祖代々の田畑や家を自分の代で終わりにできない「責任感」を挙げる方が何人もいます。
帰還しないことに、故郷を見捨てるような「罪悪感」を感じてしまうのだと思います。
ほかには高齢や体力の衰え、経済的な事情などで、 地元の福祉行政に頼るしかない方がいます。
避難先で借家に暮らしていた方は、住宅保障を打ち切られれば、町営住宅などに戻るしかないです。
避難先の地域に馴染めず、あるいは差別や嫌がらせに傷ついて戻るしかなかったという方々がおられます。

 

死んでも故郷を失ったまま

国道6号線沿いに、「コンパクトタウン」として商業施設が作られています。
それで元の生活が回復するわけではありません。
広野からいわき、富岡、双葉、浪江に至る浜通り全部が地域の「生活圏」「経済圏」なんです。
通勤・通学も、商売でも、買い物も、遊びも、 浜通り全体で生活が機能しています。
楢葉の町が回復するだけでは、生活圏・経済圏の機 能が復旧したことにならない。
まして、小さな「コンパクトタウン」に押し込まれても足りるものではありません。

実家が大熊の帰還困難区域内の中間貯蔵施設予定地にあります。
帰還困難区域である双葉町の中間貯蔵施設予定地を見て、広大な土地が大規模な建設現場に様変わりしていて言葉が無かった。
大熊の私の実家も同じ運命なのだと思い悔しかった。
事故から8年が経ち大熊の惨状は変わっていない。
母は、「ついに故郷の元の姿を見ることも叶わず死んでいくのだな。墓地に入っても、この先何十年も墓の周りがこの状態で、 死んでも故郷を失ったままだ」と言っていた。

 

見えない放射能は恐怖

原発事故を体験した者にとって、見えない放射能は恐怖以外の何ものでもない。
「除染」されたとしても残留放射線に対する不安が払拭できない。
今も第一原発から出続けている・漏れている放射線への不安がある。
工程表通りに廃炉作業が進むのかと思う。

ニュースで「東京電力の作業中のトラブル」 (工具落下や汚染水タンクの雨水浸水・作業員の怪我や死亡事故など)を見聞きするたび、「ああ、またか」という感じで信用できない。
また避難生活になるかもしれないという不安を抱えて生活したくない。
断ち切ったのであれば、こんなにがん張って裁判などやれない。
戻れるものなら戻りたい。
私たちは好き好んで避難してきたわけではない、という気持ちが根底にある。

夫や次男との生活もやっと落ち着いてきたところだし、今年 87 歳になった母の介護や生活支援の必要もあるので、帰れる状況ではありません。

しかし楢葉への思いを断ち切ったのではない。
「賠償を十分にしたから、あとは帰還するもしないもご自由に。
あとは自助努力で対処してください」と言っているようなもの。
これが非常に理不尽で、納得できません。

経団連の『日本を支える電力システムを再構築する』批判(下)

経団連の意を受けて経産省は新たな小型原発の開発を進め、2040年頃までに実用化を目指す。
既存の大型原発より出力を調整しやすい小型原発が必要とする。
福島第一の原発は小型である。
150万kWに対して50万kWを3基となると、事故発生の確率は3倍になる。コストもさらにかさむ。

地球温暖化対策なぞといっても、核分裂エネルギ-の70%は海水を温めるのに浪費され、地球温暖化を進める。

第四に、韓国による水産物輸入禁止措置をめぐる世界貿易機関(WTO)の紛争処理手続きで日本は逆転敗訴した。

東日本大震災、原発災害からの復興を喧伝してきた政府と経団連にとって、大誤算のしかし当然の事態となった。
日本政府が「不当な差別」で「必要以上に貿易制限的」と主張した福島や茨城など8県の水産物に対する韓国の禁輸措置をWTOが容認したのである。
植民地支配や徴用工や慰安婦等の問題を「不当な差別」とは思っていない日本政府は、韓国による日本産品の禁輸措置こそ許しがたい「不当な差別」だと憤慨するのである。
福島の実情を見るとよい。

第一原発には100万トンを超えた高濃度汚染水がある。
東電はつい先日まで、これにはトリチウムしか残っていないとしてきたが、放射性セシウムやストロンチウムの相当量が残ったままであることが明らかになった。
タンク保管が無理になったので海に放出すると言う。
政府や規制委員会はセシウム等をできる限り濾過して、後は希釈して捨てればよいとする。
だが100万トンの中に含まれる放射性物質は絶対量としては大量となる。
他方では通常の許容被曝線量の20倍まで我慢して故郷に戻れという。
原子力緊急事態宣言を解けないままの「復興五輪」である。
独占資本の利潤をすべての物の上に置く中西君や安倍君の本心は、福島や沖縄を見るだけで明らかである。(原 野人)

 

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