原発事故被害者「相双の会」会報79号が届きましたので、転載します。

10月25日に出された国連人権理事会特別報告で、理事会のトゥンジャク特別報告者は原発事故後、日本政府が避難指示の解除用件の一つとしている「年間20ミリSv以下」という被爆線量について、事故前に安全とされていた「年間1ミリSv以下」にすべきと述べました。

その上で子どもや出産年齢の女性 について 1ミリSvを越える地域への帰還をやめるよう日本政府に要請しました。

それに対して日本政府は「帰還は強制しておらず放射線量の基準は国際放射線防護委員会の勧告にもとづくものだ」と反論しました。
また「不正確な情報に基づいた声明が発表されることで被災地の風評被害助長されかねない」として懸念を示しました。
このように国連からの要請にも耳を傾けようとしない日本政府、本当にこの国には国民の命と健康を守ると言う考えがあるのでしょうか?
外国 からすれば異常な国としか見えないでしょう。
なぜそれまでして国策として原発を推進してきたのでしょうか。
被害者である我々こそ考えなければなりません。

電力会社は国策としての法律に守られ、稼働率が悪くても何百回となく事故を起こしてもボロ儲けしているのは何故でしょうか。
福島の原発のように大事故を起こしても、住民がふる里を喪失しても、謝罪もなければ責任も取ろうとしない。
国民の税金を使い原発をつくり稼働させ、事故を起こせば被害を蒙るのは国民です。
それでも自民党政権は原発を擁護している。
こんなことを許されているのは日本だけです。

 

 

除染土壌の公共事業再利用-全国に放射能ばらまくな

「相双の会」会報 77 号(10月1日)で報じたように、福島県内の除染作業で生じた大 量 の 汚 染 土 壌 を 減 ら す 目 的 で8000Bq/kg 以下の汚染土壌を公共事業に再利用する計画を環境省が進めている。
中間貯蔵施設に30年保管し後は最終処分場に移すという、当初から実行する気のない誤魔化しの計画をたて、汚染土壌を減容化していくために、公共事業に再利用する実証試験を南相馬からはじめた。
放射能汚染を規制する基本の法律は、福島事故以前は「原子炉等規制法」と「放射線障害防止法」の2つで、その法律では放射線管理区域から出てくる汚染の恐れがある物はすべて放射性廃棄物であるとされてきた。
2005年の「原子炉規制法」の改正により、原子炉解体にともなって出てくるレベル以下の汚染物は、放射性廃棄物ではなく普通の物(何に使っても構わない)としてよい、というクリアランスの考え方が導入された。

事故を想定してのドサクサの中での法律である事は間違いない。
(チェルノブイリ事故を想定しての対策であったのかさだかでないが)

命と健康を第一に考えるならば放射能に安全の値はないと考えるのは当り前のことだ。
汚染土壌を全国の公共事業に使うことは、放射能を全国にバラまくことだ。
こんな事は絶対に許されることではない。

 

 

友人のYさんが北海道で亡くなったという知らせが 10月末、彼の弟から届いた。
室内で倒れ、数日後に見つかったという。
死因は心不全。享年56だっ た。

Yさんは小高町(現南相馬市小高区) に生まれ、父親の転勤で小学5年のときに地元を離れた。
山梨県内の高校を卒業後、成田に赴いて空港に反対する農家の援農に勤しんだり、ひとり福島に戻って第二原発の建設工事に携わったりしていた。
第二原発で働いたのは、「原発そのものには反対だけど、故郷の福島になぜ原発がつくられているのか、この目で確かめたかったからだった」と話していた。
東日本大震災が起きるまでは、移住先の沖縄でサトウキビ農家を営み、都会の若者のために農業体験の場を提供するNPOの代表も務めていたという。

常磐線小高駅。昨年仙台から浪江まで開 通したが、日に数本しか通らない。

 

 

Yさんと知り合ったのは1983年の第1回ピースボートの船上だった。
話をしたら、ひとつ年上で小高町出身、日本キリスト教団小高教会に赴任していた牧師の息子だとわかった。
同じ町内とはいえ、私は在の福浦小学校、彼は街中の小高小学校に通っていたので、 子ども時代の接点はなかったけれど、 同郷のよしみで馬が合った。

その後、消息を聞くことはあっても、 長らく疎遠になっていた。
そのYさんから突然電話がかかってきたのは 2011年4月7日、津波で小高町浦尻の実家が流され、原発事故で避難を余儀なくされた妹一家のいる猪苗代町総合体育館に向かう途中のことだった。
「Yです。 俺のこと覚えているかな」。そう言うのだけれど、すぐにはわからない。
少し話をして、ああ彼かと思い出した。
共通の知り合いである保坂展人さん(現 世田谷区長)から私の携帯番号を教えてもらったのだそうだ。
久しぶりに声を聞いた旧友は、生まれ育った教会に はもう誰もいない、故郷の小高が心配だ、と語り続けた。
Yさんとは翌月の5月に再会した。
すでに警戒区域に指定され、町のなかには入れないものの、少しでも小高に近づきたいと沖縄からやってきたYさんと南相馬市に向かい、鹿島や原町の海岸沿いを回ったり、当時市長だった 桜井勝延さんに会ったりした。

私は先に帰ったものの、彼は大胆な行動に出た。
生まれ故郷に対する思いが強かったからだろう、生家である教会を見にいこうと、人目に付かないように原町から歩いて小高に入ったというのだ。
ところが、小高から原町に戻る途中の警戒区域内で警察官に見つかり、南相馬署に連行されて数時間に渡り、取り調べを受けることになってしまった。
後日、このときの様子を彼が面白おかしく語るので、ふたりで笑い転げたものだ。

離婚して独り身だったYさんはその後、福島に移り住み、復旧・復興の手助けになりたいという一心で、第一原発の収束作業に従事することになる。
宿舎となったいわき市湯本の温泉宿から毎日、現場に向かった。
ただ、持病のあった彼にはつらい仕事だったようだ。
いわき市内の病院に数カ月、入院した。

退院を機に、小高により近い相馬市に引っ越した。
相馬に住んだのは、原町では住宅の空きがなかったからだ。
が、いわきから原発に通勤するよりも遠くなってしまう。
会ったときには、 朝4時起きの出勤はきついとこぼしていた。
結局、体力が続かず、より近場の浪江の除染作業に就いたり、浪江の震災がれきの運搬の仕事に入ったり、 避難によって家族別々に暮らす高校生のための寄宿舎の管理人をしたり、警戒区域外にハウスを建てた農家の手伝いをしたりすることになる。

この間、原町に転居し、さらに一歩小高に近づいた。
父親の大先輩にあたる小高教会元牧師の杉山元治郎(後に衆議院副議長)や小高教会に通っていた鈴木安蔵(現憲法の条文に影響を与えたとされる憲法学者)らに対するリスペクトを語り、いずれ教会が再開できるよう関係者に働きかけながら、地域の人々やゆかりの人々、小学校時代の同級生らと交流していたようだ。
一昨年には南相馬市の助成を受けて「いのちの祭り」と称する復興支援の音楽イベントを開いた。
地元村上の田植え踊りも披露してもらったそうだ。

私も田舎に寄ったときにはYさんのもとを訪ね、町の様子や仕事の苦労を聞いたり、たわいのないおしゃべりに興じたりするのが恒例行事になっていた。
だが、Yさんは極度のアルコール依存で、しかも躁と鬱の差が激しい人だった。
ダウンするとまったく連絡が取れなくなり、アップすると妙に活動的になったり、必要のないものをじゃかすかと買いまくったり。
事情を知らないまわりの人を当惑させることもあったようだ。
果ては、私に累が及ん だことも……。

杉山元次郎が牧師をしていた小高教会。 今は無人で閉鎖中。

 

北海道移住を決めたと知らされたのは昨年の10月だった。
アルコール依存を克服し、生活を立て直そうと、働きながら障害者施設にかかわることにしたのだという。
「健康になって数年後に はまた南相馬に戻ってくる。そのときは小高で暮らしたい」と語っていた。
危ういなと思いつつも、自分自身の選択だろうから、と納得した。

あれから1年――。志半ばのまま、 Yさんは逝ってしまった。
さぞ無念 だったことだろう。
私も悔しくてたま らない。
震災と原発事故の陰で、こんな人がいたことを記憶にとどめてもらえればと思う。 (以下 次号へ続く)

(フリーランス記者/旧小高町出身・東京都在住/MAIL:BXQ01050@nifty.ne.jp/
震災関連の著書『復興なんて、してません』(共著、第三書館)、『除染労働』(被ばく労働を考えるネットワーク編、三一書房)など)

 

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