原発事故被害者「相双の会」会報63号が届きましたので、転載します。

特別寄稿
東京電力は 100万トンに達した福島第1の汚染水がどうにもならなくなり、海に垂れ流したがっています。
この問題をどう考えるか。
小出先生から寄稿していただきました。

 

福島第一原子力発電所のトリチウム汚染水問題
元京都大学原子炉実験所助教
小出 裕章

トリチウム汚染水

福島第一原子力発電所には、約1000基のタンクに100万トンの汚染水がたまっています。
そのうち77万トンは、一応の廃水処理を施し、あとはトリチウムだけが残っている汚染 水だと東電は言っています。
トリチウムとは、別名三重水素と呼ばれる水素の同位体で、環境中では酸素と結合してほぼすべてが水になります。
廃水処理とは水の中から不純物を捕捉して除去し、きれいな水を作ることですが、トリチウムは水の構成要素ですので、どんなに水をきれいにしても、決して取り除けません。

 

国はトリチウム汚染水の処分方法として
①地層への注入
②海洋放出
③水素に変化させて大気放出、
④蒸発
⑤セメントなどで固めて地下へ埋設
の五つを上げ、②の水で薄めて海洋放出する方法が最も短期間に低コストで処分できるとの報告書をまとめています。

 

④の蒸発 は水を海に流すか、空気中に放出するかの違いだけで、むしろ陸で生活している人間からみれば、余計被曝が多くなってしまいます。
③の水素に変換する方法は、エネルギーも手間もかかりますし、一度水素にしてもどうせ速やかに水になってしまいますので、ほとんど意味がありません。
①の地層への注入は、福島第一原子力発電所の敷地で実行することはできないでしょう。
⑤のセメントに固める案も、いずれは環境に出てきてしまうでしょう。
それでも、トリチウムの半減期が12年であることを考えると、 環境に出てくるまでに時間を稼げますし、それなりに被曝を減らせるでしょう。
でも、もちろ んエネルギーもコストもかかります。
どうせ取り除けないのであれば、出来るだけコストをかけず、速やかにやってしまいたいと東京電力は思うでしょう。

 

トリチウムは放射性物質

天然に存在している水素はもちろん放射能を持っていませんが、トリチウムは放射性物質です。
弱いベータ線しか出しませんが、被曝を生みます。
被曝すれば、DNAを含め傷を受け、 がんを含め様々な病気が生まれます。
日本でも世界でもたくさんの公害が起き、今でも起きています。
水俣病もイタイイタイ病も、新潟水俣病も、多くの公害は水を汚したことで起こりました。
人間の体の6割から8割は水であり、水を汚してしまえば、生きることができません。
トリチウムを含め放射能を消す力を人間はもっていないし、トリチウムはどんな手段をとっても水から除去できないのです。
究極の環境汚染です。
遠くない将来トリチウムを含んだ汚染水を海に放出すると東京電力が言い出すと私は言ってきましたが、ついに7月14日に川村隆会長がそう言いだしました。

 

原子力利用は必然的にトリチウム汚染を引き起こす

原子炉を動かすと、トリチウムを含め様々な放射性物質が生み出されます。
福島の事故で熔け落ちた燃料は約200トン、それに含まれているトリチウムの量は約3.4ペタベクレルです。
一方、日本では原発の使用済み燃料はすべて再処理すると決められていました。
再処理とは使用済み燃料を高温の濃硝酸に溶かして、プルトニ ウムを分離する作業です。
その過程でトリチウムは全量が水に移り、環境に放出されることになります。
六ヶ所村に計画されている再処理工場がもし運転を始めれば、 1年間に800トンの使用済み燃料を処理する計画です。
その六ヶ所再処理工場は、国の安全審査を受け、毎年18ペベクレルのトリチウムを平常運転として環境に放出することが許可されています。
ただし、その場合には、放水管を海岸から3km沖合まで引き、水深44mの海底から放出することにされています。
そんなことをしたところで、結局海を汚染することには変わりなく、水の惑星である地球をトリチウムで汚染することに私は反対です。

福島第一原子力発電所で放射能汚染水を増やさない対策として、私は地下に遮水壁を作ることを事故直後の5月に提案しましたが、それは採用されませんでした。
今、凍土壁を作っていますが、そんな壁が実現できるはずもなく、今も汚染水はどんどん増え続けています。
熔け落ちた炉心を冷却するために水を使うのをやめ、低融点の金属による冷却、あるいは空冷も検討すべきと提案してきましたが、それも採用されませんでした。
福島のトリチウム汚染水は、残念ながら、今となってはどうしようもないと思います。
せめて、今後の原発を動かさないという選択をすべきと思いますが、東京電力も国も、今止まっている原発の再稼働に進んでいます。
まったくでたらめな国だと私は思います。

 

強制避難解除12市町村の児童・生徒激減―事故前の11%に

 

小・中学校の児童生徒数は事故前の 8,388人であったのが6年過ぎた5月には 929人となった。
関係省庁や県は第一の原因は原発事故であることが議論されなければならないにも関わらず「一人一人の個性や能力に合った個別指導計画などスペシャルな教育を実現できるチャンス」「取り組みは全国の参考になる」と放言し、 問題をすり替えています。
被害者をどこまで苦しめ馬鹿にすれば済むと思っているのか。
来年3月末日には、借り上げ住宅補償がなくなり、まさに兵糧攻めで生活が出来なくなる事が予想されます。
子育て真っ盛りで不安でも帰還しなければならないという選択を余儀なくされてしまう。

 

日本では、一般人に対しては1年間に1mSv以上の被曝をさせてはいけないという法律がある。
放射線管理区域から、1㎡あたり4万Bqを超えて放射能で汚れたものを持ち出してはならないという法律もある。
被害者住民の声も聴かずに強制的に避難解除したものの、学校再開した地域であっても一部を除いては殆ど4万Bqを越えています。
多いところは100万Bqをはるかに越えている所もあります。

 

 

「難民の子」として生まれて

―被災地に来てよかった
蟻塚亮二
(ありつかりょうじ)

 

1947年福井県生まれ。1972年弘前大学医学部卒業。精神保健指定医、1985年から 1997年まで弘前市・ 藤代健生病院院長。2004年に沖縄県に移住。
日本精神障害者リハビリテーション学会理事。
欧州ストレ ストラウマ解離学会員。
2001年精神保健功労にて青森県知事表彰。
2013年 4月から福島県・相馬市・メンタルクリニックなごみ所長

 

◆私の父母は中国から引き揚げ、戦後に福井の旧軍飛行場跡の開拓地に入り、私はそこで生まれ育った。
高台の土地で水田稲作は困難で、もっぱらイモやスイカ、養鶏などで食いつないだ。
学校に行くときに母親から卵を一個渡され、途中の商店でパン一個と取り換えて弁当にした。
何しろ貧しく、学校に持っていくお金がなくて先生に叱られた。
学校から帰ると遊ぶどころか、 鍬を持って畑を打ち、牛やヤギを引いて草を食べさせた。
そんな生活もついに破綻して離農することとなり、小学6年からは青森県に母の実家を頼って引っ越した。
開拓村には最後まで水道は引かれなかった。

 

◆振り返ると、私はなんと多くの国策と出会ってきたことかと思う。
父母たちが体験した戦争、 戦後開拓、弘前大学を出てからは精神科医となり「国策として長期に社会から隔離される精神障害者』の社会復帰に取り組み、燃え尽きてうつ病となり沖縄に移住。
そこで沖縄戦のトラウマによるPTSD(心的外傷後ストレス障害) を見つけ、その仕事に没頭しているときに3. 11大震災と原発事故が起き、今は相馬で仕事をしている。

 

◆戦争も原発事故被害も、精神障害者の社会的 困難も、沖縄戦PTSDも、すべて国策として の被害である。
同時に戦後開拓という難民政策 の中で生まれ育ち、いま原発事故避難者という 難民の方たちの診療にあたっている。
私の人生 は「国策と難民」というキーワードで検索すると、ほとんど一本の線につながっているようだ。

 

◆沖縄で、高齢者の中に「一晩に3回も4回も目覚める」という「奇妙な不眠」を見つけた。 それまでの40年近い精神科医の経験の中で、 そんな不眠は見たことがなかった。
ナチスの収容所からの生還者に関する米国の論文を手掛かりに、目の前の「奇妙な不眠」が沖縄戦による 晩年発症のPTSDだと分かった。
日本に戦争体験者や満州引揚者などの精神衛生に関する論文はほとんどなかった。
日本という国は戦争という巨大なトラウマを体験したにも関わらず、戦争が人々の心や身体に与えた影響について、日本の精神医学はほとんど向き合おうとしない。

 

◆沖縄戦によるPTSDを見つけた時、沖縄社会はとても驚き、地元新聞の沖縄タイムスは拙著『沖縄戦と心の傷』(大月書店)に出版文化賞を下さった。
広島の某医師の論文を除くと沖縄でも日本全体でも、戦後60数年後に戦争や空襲によるPTSDが発症するという報告はなかった。
私は突然忙しくなり、国内の学会や講演会、時にはヨーロッパのストレス・トラウマ学会などで、それを報告した。
ケンブリッジ大学の「島の戦争研究会」で報告した時には、「そんな昔の戦争トラウマが、今も現在進行形で残っているのか」と欧州の学者に大変驚かれた。

 

◆そして3.11大震災と原発事故が発生した。
私は秘かに「福島でも50~60年たつとPTSDが発生するかもしれない」と考えていた。
そのうち、以前から親交のあった福島の友人たちは、大震災後に今の診療所を立ち上げた。
その翌年、福島医大の丹羽真一・前精神科教授と 診療所のS君に東京で会い、「お前が来ないと診療所がつぶれる」と言われた。
頼まれると断れない私に、そういうセリフを言ってはダメだ。
私は沖縄の診療を同僚に託して相馬に来た。

 

◆しかし、「私が被災地に来てよかった」と思う。
それは沖縄でのPTSD診療の経験が、相馬で そっくり生かされたからだ。
そもそも、PTSDやトラウマの診断・治療を日常診療で行う精神科医は日本にきわめて少ない。
具体的な薬の使い方や治療や診断について書かれた本は日本にはほとんどないに等しい。
この点では、私は沖縄戦体験高齢者の方々にとてもお世話になった。
PTSDやトラウマ診療の実際のやり方は、欧州のトラウマ学会や第一次大戦従軍兵士のPTSDを記載したカーディナー『戦争ストレスと神経症』から学んだ。

 

◆米国とWHOの診断基準では、PTSDは原因となる出来事から6か月以内に発症するとさ れている。
私が沖縄戦から60数年たって発症したPTSDを報告した時、「そんなものがあるなんて」と沖縄の精神科医もケンブリッジの学者たちも驚いた。
それは、「PTSDは6か月以内に発症する」ものと信じていたからである。
しかし臨床現場の医師にとって最も信ずるべきものは「書かれた教科書」でなく、目の前の患者さんの訴えである。
相馬に来てみたら、震災後2年たって叔母さんが亡くなったのを契機に PTSDを発症した女性と出会った。
彼女は仮設住宅で暮らしていた。
そこでこれを、遅発性PTSD(遅く発症したPTSD)と名付けた。
教科書よりも目の前の患者さんを信じ、自分の経験値と照合するなら、「書かれた行と行の間」 に新しい医学的事実を見つけることができる。

 

◆こうして、国策難民の子だった私は、沖縄戦という国策被害の経験を伝達しながら、原発事故という国策被害の人々とお付き合いしている。
どう生きればいいかなんて考えない。
目の前の困難は、私たちに生きる意志を問うている。
沖縄の辺野古の闘いの現場に、「勝つためのコツはあきらめないこと」とある。
生きるためのコツはあきらめないことだ。

 

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◇電話 090(2364)3613 ◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com

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