原発事故被害者「相双の会」会報62号が届きましたので、転載します。

本人尋問を終えて―
奪われたのは人生そのもの
福島原発避難者訴訟・弁護士 市野綾子

東京電力に対して福島第一原子力原発所の事故の責任を追及している避難者訴訟(福島地 裁いわき支部)で、6月21日、原告たちが被害の実相を訴える最後の本人尋問が行われました。

この日は、原告団団長の早川篤雄さん、國分富夫さんたち4名の原告が証言しました。
このうち、私は國分さんの尋問を担当しました。

國分さんは、故郷の小高区から雪深い会津若松に避難したことで笑わなくなってしまった妻のこと、原発事故の混乱により病気になり20年間勤めてきた職場をやむなく退職した娘さんのことなど、原発事故によって家族の人生 が狂わされたことを証言しました。

また、故郷・小高区で隣組をあげて開催した流しそうめん大会や住民皆で参加した町ぐるみの行事である文化祭、農業祭、工業祭のこと、 友人の手助けを得て自分たちで造り上げた自宅、これらがすべて原発事故によって失われたこと、そして、お孫さんが原発事故前の文化祭のパンフレットを見つけて泣いていたことなどを証言しました。

そして國分さんは、放射能の健康被害は20年、30年経過しないとわからないのに、事故からわずか5、6年で故郷は安全だと主張する東電は無責任であると訴えました。

 

溢れ出る怒りを抑えきれないように、法廷での声は迫力を増していました。

この日の最後には、原告団長の早川さんが証言をしました。早川さんは、原発事故前から東電に直接、福島原発の危険性を訴え続けてきたこと、その間、東電は津波被害で事故が起きる可能性があると知りながら何も対策を講じてこなかったことを、画像を使って裁判官に訴えました。

原発はいつか重大な事故を起こすからない方がいい。
そんな思いで原発と向き合ってきた住民たちは少なからずいました。
今回証言した 早川さんも國分さんもその一人です。
彼らがその原発事故の被害者になってしまった不条理を改めて感じています。

福島第一原子力発電所の事故は、住民たちから故郷を奪いました。
身近な自然と長年培ってできた人間関係、地域固有の行事や子どもたちの生育環境・・。
原発が住民たちから奪ったものは、いわば人生そのものと言ってもいいほど甚大です。
今回の尋問打ち合わせの際、故郷・小高区のことを國分さんはこう言いました。
「いいとこだったんだよ。離れてみて初めて気がついた。」多くの被害者がこう感じ、奪われたものの大きさに戸惑い困惑しているのではないでしょうか。

 

あらためて福島原発避難者訴訟とは

原告は 189 世帯で、いずれも原発事故当時,避難区域である双葉町,楢葉町,広野町,南相馬市、川俣町(山木屋地区)などに居住していた住民であり,現在も避難生活を強いられています。
原告は原発事故によって被った被害として,東電との交渉を通じて賠償を一部得ていますが、ADRも含めて賠償基準は国と東電で一方的に定められていて、合意に至らなかった部分がたくさんあります。その部分の合計 278 億 2091 万 3632 円の損害賠償等を裁判で請求しています。

基本的な考え方は「生活再建,再出発に必要な賠償を」です

一人ひとりの被害者が地域コミュニティから無理やりひきはがされ,人間同士の関係性を断ち切られて孤立し,従来の人間らしい生活とその基盤を根こそぎ奪われ,今後どこに定着して生活したらいいのかの見通しもつかないこと,すなわち全人格的被害を受けています。
本件事故による被侵害法益は,人格発達権や平穏生活権であり,これまでの差額説的な考え方で扱われるものではなく,このような権利を充足していた社会的諸条件の効用の回復にこそ損害賠償の目的でなければな りません。
生活再建,再出発を行なうために必要な賠償, 原状回復が図られるべきです。
ただし、本件は、訴訟提起以来、時間が経過し、被害者の救済は待ったなしの状況である。
一刻も 早い被害者の権利の実現のため、請求項目は、最終的に、自宅不動産、家財、慰謝料に絞っています。

 

損害賠償請求の項目

①財物賠償(土地・建物・家財)
向こう5年間以上の間は生活基盤としての価値を全面的に喪失したので、時価ではなく, 再取得価格の請求をします。
②避難に伴う慰謝料
避難生活が終了するまで,一人につき月額 50万円を請求します。
③ふるさとを喪失したことに対する慰謝料
かつての自宅,また自宅のあった地域社会そのものを喪失したことに対する慰謝料とし て,一人につき,金2000万円を請求します。

6月21日に第24回口頭弁論終える
これまでの口頭弁論 11回で、59名の原告が証言をしてきました。
第18回以降は2つの法廷にわかれて、スピードアップ。
16年には3回にわたって、裁判官らによる仮設や避難指定区域の現場検証も行われました。
第22回口頭弁論においては、除本理史・大阪市立大学教授が「ふるさと喪失慰謝料」の内容を余すところなく明らかにしました。
最後の原告訊問となる第24回は6月21日に 80名近い傍聴支援が見守る中、原告団長の早川篤雄(楢葉町)、相双の会会長の國分富夫(南相馬市小高区本会報に要旨掲載)ほか4名の尋問が終了しました。
10月11日の第25回法廷で判決日が指定される予定です(来春3月が想定されます)。

 

國分富夫 怒りの証言―第 24 回尋問(要旨)

 
家族に鬱病が

会津若松の避難先から南相馬に15年6月に移動しました。
妻・美枝子が自分とも話さず、 避難先の家一人で泣いているようになり、鬱気味になった。
これまでの居住の小高から出たことがない妻をとんでもないところに避難させてしまったと思いました。
事故で自分の居る場所がなくなったと訴えています。
下ばかり見ていたので桜が咲いたのも気付かないほどだったと言っています。
避難生活中の11年9月に義母井戸川カツエが他界しました。
親戚も皆な避難中で連絡もできずひっそりと送り出すことになった。
同居していた孫は高校1年の終わり頃からいじめに遭い学校に行くなら死んだ方がいいというようになりました。
そこで不登校の子どもの支援学校に転校しました。
娘は2010年4月に南相馬市市民課に異動になったばかりで原発事故に遭遇、押し寄せる住民の苦情で、窓口で怒鳴られる日々が続いた。
母子家庭で働かなければと頑張りすぎ たこともあるが、事故当時は体育館に泊まり込みで物資の受け入れと避難者の世話をした。
避難すれば逃げたような感覚になり、避難することもできなかった。
職場に長期病欠者が多くいた。
昨年11月うつ病で休職になり、17年3月に退職を余儀なくされた。
原発事故で 娘親子は人生を狂わされた、事故がなければ地域に見守られて孫もはつらつとしていたはずだ。

 

何十年もかけた地域の絆をすべて失った

原発事故が起きた2011年まで、私の人生の中ではいい時間だった。
地域に貢献しよう と思い畑を耕し野菜をつくり配って歩いた。
紙漉き、蜂を飼っていた。
それが楽しかった。
今思えば貴重な時間。
それが何もなくなった。
行政区会計をやり隣組で亡くなれば葬儀の用意をする。
花見、バーベキュー、流しそうめん、 よくお酒を飲んだ。
流しそうめんは竹の長さ は 30メートル以上あり大喜びだ。

小高区が町ぐるみでやっていた行事は農協主催の農業祭と工業高校主催の工業祭、小高区主催の小高の文化祭、マラソン大会もあった。
小高の自宅は1978年に建てた。私が33歳、 妻が31歳の時です。
お金がないので基礎工事は自分でやり、妻も基礎のコンクリートを隅々まで流し込む作業をやった。
新築した自宅で、地域の仲間たちと議論し勉強会もやった。
憲法の勉強もした。
(小高は憲法学者の鈴木安蔵の生地そのことは私たちにとって誇りでありました)
友人関係はつくろうと思っても出来るものではない。
長い時間をかけて信頼関係ができ るものです。
それが残念な事に今まで何十年もかかって自分の人生で培ってきたものがすべてなくなった。
原発は危険だと教えられてきたが、こんな事になるとは思ってもいなかった。
だからよけい悔しい。
ハッキリしたのは原発事故が起きると全てを失うこと、そして元には戻らないということだ。
避難先で、孫は私の車にあった小高の文化祭のパンフレットを見つけて思い出して泣いていた。自分もその姿を見て、寂しくて涙が出ました。

 

自分で基礎工事した家も壊す

野菜は自分で作った。
実家(金房)の川では 子どもの頃うなぎ、ヤマメ、蟹がとれた。
秋になると味噌汁の具がなければ裏山にいってキノコをとってくる、大人になってからは友人が海で魚を取ってきてくれた。
小高は東北と言っても雪も降らず、海の幸、 山の幸、人情味が深い。
このような地域を失った事について残念でなりません。
特に若者、子ども達は生涯放射能と向き合って生きていかなければならない事は可哀想でなりません。
小高の自宅は 2016年11月に取り壊しました。
その時は孫たちと一緒にいたが無言だった子もいるし、半分泣いている子もいた。
近隣住民の方も、寂しがっていた。
特に高齢 の方から会うたびに口々に寂しいと言われました。
取り壊したあとの風景は今までと違う。
長く暮らしてきた粗末な家だったけど、お金がないために自分で基礎をつくった思い入れのある家。
材木も山から自分で運び出した家ですから。
悔しい。解体しているときの妻は泣きっぱなしだった。
私と目を併せるのが嫌で、 隣近所の人に「壊しているの」と言われて余計悲しくなったのでしょう。

 

避難解除したが—小高区の実態

小高区内で小学校、中学校、高校全部再開していますが、4校あった小学校は一つに再校したが全学年で 63人。
今年入学した1年生は3人と聞いています。
事故前、4つの小学校で 1000人ほどの児童だったと思います。
原町区等から通っている子どももいるようです。
避難指示解除後、コンビニが2軒できました。
事故前からあるお店では食堂、寿司屋、鮮魚店 2軒。
理髪店2軒が再開しました。
鮮魚店1軒は仮設を回って行商しているものの、芳しくなく、店自体は閉まっていることが多いようです。
小高に戻った人は、食糧や日用品は原町区まで買い物に行っていると聞いています。

 

低線量被ばくに対し無責任

小高は安全だと主張しているが、自然界であっても被ばくするよりは被ばくしない方が良く、医療被ばくは生きるためにやむなくレントゲンなのだ。
それに原発事故による放射線量がプラスされて少なくても 3倍から 100倍、200倍になっている。
それに放射能セシウム 137 は 100 年でやっと 10 分の 1 になる。
低線量被ばくは 20 年~30 年(晩発障害)後どう言う結果を生むか分からない。
5年や6年のデーターで「大丈夫だ」と言うのはあまりにも無責任です。
放射能が自然界のものと同程度になるまで 帰還させるべきではないと思います。

 

なぜ裁判なのか

私がこの裁判を起こしたのは、私たちは被害者でなんの落度もありません。
原発事故により 平穏な未来を奪われました。
それに若い人は生涯放射能と向き合って生きなければならない 不孝な事態となってしまいました。
私たちは何処にも助けを求め所はありません。
司法に助けを求める以外ありません。

 


気になる福島県の「急性心筋梗塞」死亡率全国1位

厚生労働省が6月14日に発表した、日本人の死因別、都道府県別の死亡率(人口 10万人当たりの死亡数)に関する2015(平成 27)年調査の結果は、福島県が都道府県別の急性心筋梗塞で男女ともワースト1位だ。
福島県は、調査結果に対して「現状を重く受け止め、健康指標の改善に努力を続ける」としているが、ストレスは気づかないうちに体にさまざまな影響を及ぼす。
心筋梗塞も ストレスが大きな危険因子となるとされている。
このようなことからすれば原発事故により長期間の避難生活、帰還したが年寄りだけで孤立している、若者は線量が気になる、ふる里はもう元には戻らない事が明らかになってしまったことへの絶望が大きな要因ではないかと思われる。
ストレスは血圧や血糖値を上げ、消化器系の働きを抑制し、血清コレステロール値を急上昇させ、 血栓をつくりやすくする。
つまりストレスが心筋梗塞の危険因子となる。
ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3カ国にある「チェルノブイリ法」では、1~5 ミリSv以上は 強制移住ゾーン、0.5~1ミリSvは徹底的なモニタリングをする。
そして、内部被ばくも含めて「1ミリSv以上は避難の権利」と補償があり、「5ミリSv以上は強制移住と補償」がセットになっています。
しかし日本には、そのような権利がなく、補償もほとんどない。
「20 ミリシーベルト以下は健康に影響なし」と言っている日本は異常である。
政府はこのまま健康被害の拡大を放置するつもりでしょうか。

ご意見のお願い
是非ご投稿をいただき「声」として会報に載せたいと考えています。
匿名でもけっこうです。
◇電話 090(2364)3613 ◇メール(國分)kokubunpisu@gmail.com

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