原発事故被害者「相双の会」会報103号が届きましたので、転載します。

平和だった小高町(現南相馬市)

小高町は阿武隈山脈を背に太平洋が広がる豊かな自然を満喫できるところである。
田舎暮らしをしたいと都会から移住する方が徐々に増えてきていた。
神奈川県藤沢から早期退職して小高町へ移住してきた方と、既に退職し野菜作りに挑戦し軌道に乗っていた私は、偶然にもお会いして意気投合、毎日のように話が弾んだ。

小高町は工業、漁業の町でもない農業の町に私たちは生まれ育った。
決して豊かな町でもなく、それでも親の代からお互いに肩を寄せ合い生活してきた。
農業は稲作、畑は葉たばこ耕作、有名になったのは金房大根だった。
それに果樹園も盛んで梨、リンゴが主なものでした。
長男は家督継承、その他の殆どは都会へと就職である。

東京、神奈川、埼玉に叔父さん叔母さんが居るのは普通だ。
地元に残って職人になる人もいた。
街中の人たちも同じで長男は商業の跡を継ぐ、他は都会へ就職である。

このような田舎町でも 1975 頃から大型店舗が入り始め一変してきた。
農業も大型化され稲作は食管制度撤廃で五~六反百姓では生活できなくなり若い人は企業等へ就職し、農業は日曜百姓で高齢者は田畑管理と孫育て、家族と助け合い、地域コミュニティがつくり上げられ、正に遠くの親戚より近くの他人である。
以下は、そういうふるさとを剥奪された友人のことです。

人生そのものが奪われ、悔しくて悲しくて私の友人佐藤まさおさん(匿名)は長男でもあり、親からの家を継がなければならない運命にあったであろうと推測されます。
大工職人の修行に入り押しも押されもしない職人となり、事業者として数名の職人を使い棟梁を発揮してきた。

そろそろ年齢的にも余生を楽しみたい矢先に東日本大震災が発生。
経験したことのない大地震の中、私はたまたま、まさおさんの家へ遊びに行っていた。
東北電力の送電線の鉄塔が立っていた。
その鉄塔が倒れるのではないかと思うほど大きな揺れ、まさおさんの家族の無事を確認してから一目散に家へ戻りました。
その後はまさおさんとは音信不通となり、しばらく過ぎてから新潟に居ることが分かった。
そのころ私は若松市に避難し比較的新潟は近い事もあり、新潟市内に多くの方が避難していることを聞き、何とか皆さんとお会いしたいとおもい、新潟市議会議員であった小林義昭さんをご紹介され、お世話いただき、久々にお会いすることが出来ました。
まさおさんご夫婦も来ていただき元気な姿を見て安心しました。
それからは頻繁に電話のやり取りを繰り返してきました。

まさおさんは高齢のお父さんも一緒でありました。
原発事故前は健康な人でしたから自分のことは自分で、一切手がかからなく、隣のお友達とお茶をして老後を楽しんでいるようでした。
原発事故後は避難先を転々した事もあり、自分の居る場所が分からなくなりトイレが大変、医者へ行っても福島の浜通りと新潟の言葉の違いもあり、しゃべらなくなり99 歳で永眠しました。

まさおさん自身も体調が崩れ避難先から自宅に行くには多くの山越えをしなければなりませんので日帰りは無理で、南相馬原町区のホテル等に一泊していたようです。

私の避難先会津若松市へ自宅へ行った帰りに寄って頂きました。
私の避難していた家の玄関先は6段ほどの階段がありましたので「階段は登れない」とそこへ座り込んでしまいました。
その時相当に苦しいのかなと思ったが、それでも故郷へ帰りたい一心であきらめもせず頑張っている姿を見て、涙があふれんばかりでした。
あの時 が故郷へ帰ったのが最後かも知れません。

根っからの職人魂で全て一から開拓し家族 を守り通した。
どんなに苦しくても筋を通しあきらめない方でありました。

避難先・新潟で病魔と闘った日々

震災前から COPD(慢性閉塞性肺疾患)の診断は受けた。
その時、酸素等は使用せず、苦しくなりながらも何とか生活していた。
2014 年(平成 26 年)6 月体調を崩し新潟で入院、 7 月呼吸器機能障害の診断を受け、在宅酸素になる。
その後は入退院の繰り返し
2018 年(平成 30 年)1 月肛門から出血するようになる。

11 月7日、直腸がん、肝臓に転移あり。
余命6カ月と告知される。/11 月末、人工便の手術を受けるが、酸素をしているため全身麻酔ができず局部麻酔での手術となった。

2019 年(令和元年)9月、がんの影響で排尿が困難となり、チューブを入れた。

2020 年(令和2年)4月、余命1カ月の診断。/4月末、肛門から大量に出血があったが、何とかとまった/6月末、再び出血/8月、食欲も無くなってきた/8月末、出血がとまらなくなり、救急車で病院へ入院中輸血3回/9月7日、担当医から説明があり、できる治療は全てしたと言われ、緩和ケアの出来る病院への入院をすすめられた/9月9日、自宅から歩いて3分程の緩和ケアができる病院へ転院した。コロナ禍での影響で面会もできず、携帯電話でのみつながっていた/10月、相変わらず、出血がとまらない。肝臓にも転移しているため、がんの痛みもあるが体のだるさが強かった/10 月21 日、入院して1カ月半、やっと初めての面会が出来た。だいぶ痩せていた、全身に黄疸が出てきていた/11月2日、2回目の面会が出来たが、以前より黄疸がひどく、会話もほとんど出来なく、反応もあまりなかった/11 月6日、早朝、5時半頃病院から血圧が下がってきたと 連絡があり、病院へ向かった。心臓は動いていたが反応はなく、目は見開いたままだった。
家族が病院に着いて、1時間程で静かに永眠した。76 歳だった。
原発事故がなかったらまだまだ元気でいられた。
地域での助け合いも出来たであろう。
最後は家族に看取られるのが当たり前のことであるが、コロナ禍でそれも出来ず一人旅立った。
原発が憎い。
原発がなかったらふる里で家族と共に終活できたはずである。
それが見知らぬ避難先でこの世とお別れとは情けなく悲しくてやりきれない。

東京電力はまさおさんのご遺族にも冷たい仕打ちをしています。

次に連れ合いさんのお手紙を紹介します。

まさおさんの連れ合いさんの訴え
主人は自分で家を建て、両親と一緒に暮らす、それが家族の夢でした。
そのために小高に義理の両親が五反の土地を求めていました。
そこへ息子が家を建て、瓦職人であった義父が瓦を葺く。
井戸を掘り、基礎から手をかけ、家族の願いが詰まった特別な自宅でした。
東日本大震災にも耐えましたが、自分たち地域全体避難命令が出るとは夢にも思いませんでした。
死にもの狂いで避難を転々しましたが、そんなに長くはないだろうと思いながらでありました。
それが何と 10 年になろうとしています。
自宅のことは常に頭の中にありました。
苦労して建てた家の周りは次々と解体し更地になっていく、空き家となって10 年ともなると廃屋となり住める状態ではなくなります。
それでも故郷へ帰りたい思いがあり決断できないまま亡くなってしまった主人、原発事故はお願いしたものでもなく、原発をつくってくださいとお願いした訳でもありません。
私たち被害者の願いを100%叶えるのは当たり前のことであると思います。
それが、「国が無償で解体するには期限がある」と言われてしまいました。
その間にも義父が亡くなり、夫も次々と病魔に襲われていくなか、それでも何とか決心し、すでに解体の申し込み期限は過ぎていましたが、東電にも相談しましたが「期限が切れているから出来ない」「自費で解体するしかない」と言われてしまいました。
「なぜ自費で解体なの」と言ったところ「あなたのところばかり国民の税金を使うわけにはいかない」と言われ、でもなぜ東電にそこまで言われなければいけないのか、国民の税金を使って解体してほしいと言った訳でもない。
家族みんなで唖然としました。
東電に何を言っても聴いてもらえないと夫は思ったようです。
そんな時、夫に癌がみつかり、余命6カ月と言われ途方にくれました。
それでも私や娘たちの幸せを見届け、孫との交流を楽しみながら6カ月と言われた命を2年、家族のために頑張ってくれました。
私たちは「ありがとう」の言葉しかありません。


南相馬市にある佐藤さんの自宅。現在廃屋だが多額の解体費用がかかるのでそのままになっている。

「ふるさと剥奪」とはなにか
立教大学社会学部 関 礼子

「故郷喪失」という被害は、避難が終わればなくなると見られがちだが違う。
こうした誤解を避ける為「ふるさと剥奪」という言葉を使いたい。
避難指示が長引いている帰還困難地域ではふるさとは奪われたままだが、指示が解除されても取りもどせるわけではない。

川俣町の山木屋地区は 2018 年初の帰還率は 30.1%で当時解除されていた地域の平均帰還率 15.3%からすれば復興は進んでいるように見える。
帰還率は「復興」の指標のように見なされるが実際はちがう。

本来の復興はふるさとを取り戻すことだが、「人と自然のかかわり」「人と人のつながり」「その持続性への願い」というふるさとの「三要素」は剥奪されたままだ。

2012 年度の地区の幼稚園児、小学生、中学生の合計は 86 人だったが 17 年度は 30 人、18 年度は 15 人、19 年度は小学校は休校、中学生のみ3人になった。

帰還した方はこう言っている。
「戻った・ 戻らないで対立し、戻った人も余裕ある・ないで対立した。そんなんだから、戻った人もここがふるさとにならない」。
「国は『うちに戻ったからいいんじゃないの』というんだけど、やることないのが一番辛い。

作物作って仕事の喜びがあればいいんだけど、それもない。
毎日流れていくだけで何のやり甲斐もない。
ただ老いて行くのを待つだけ」。

帰還者が復興を実感できてないだけでなく、多くの経費をかけている復興事業は人々のレジリエンス(回復力)をサポートするような筋道を描けず人々は置き去りにされている。

山木屋の帰還全世帯へのアンケート(約半数が回答)では「復興事業の成果が出たことを実感できている」と思う世帯は1世帯だけ。
「思わない」が41 世帯、「わからない」が 4 世帯だ。

復興事業の失敗のリスクが支援対象の個人に転嫁されることもある。
生業の再建を謳うものもあるが、必ずしも風土に適した持続可能なものではない。
幼稚園、小中学校の校舎整備をしても児童・生徒がいるのか。
復興事業という新たな「復興被害」を抱え込むようになった。

「ふるさと剥奪」とは不可逆的な被害だ。

「避難」と「ふるさと剥奪」を混同すると、現在進行形の被害は見過ごされ、原発事故から教訓はひきだせない。
被害と加害を明確にし未来を構想していこう。

11 月 11 日に開催された原発事故全国弁護団主催学習会での講演要旨です。
文責は「相双の会」事務局。
関礼子さんは裁判で参考人に立ち「ふるさと剥奪」を訴えています。

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