原発事故被害者「相双の会」会報100号記念号が届きましたので、2回に分けて転載します。


● ど こ に い て も 相 双 の 仲 間 ●
避難者・出身者からのメッセージ

自宅解体に立ち会う
会津若松へ避難在住 浪江町 鈴木宏孝

家屋解体申請してから二年四ヶ月、ようやく解体を始める連絡がきました。
早速、解体に立ち会うために自宅へ向かいましたが、久々に我が町浪江に入り落胆しました。
メーンストリートが解体されて更地になっていて、70 年以上も住んでいた街が、どこが入口、出口なのか、どこの家があったのかサッパリ分かりません。
誇り高く愛する浪江町のメーンストリートはゴーストタウンになっていました。

東日本大震災と原発事故で被災し 10年目、まさかこのような状態になるとは思ってもいませんでした。

避難地会津から三時間、自宅に着き解体作業を見て胸が苦しくなってきました。
昭和 38 年に 食堂を開店し二代目の店です。
一代の店は台風の被害で床上浸水となり、営業が 10日程休止したことがありましたが、原発事故となるとそうは行きません。
危険だから避難を強行され、放射能公害にさらされ 10 年目、自然消滅を待つしかない放射能、除染と言っても消えるわけでもない。

解体作業に立ち会っている間に数人の友達が来て、昔話をしていましが二度と元には戻らないと思うと心寂しくなってしまい、二代目の店にも 20年近くお世話になり、解体せざるを得ないことに申し訳ない気持ちです。

今は色んな経路をたどって孫たちと一緒に会津の地で生活しています。
愛するふる里浪江町に戻ることはないと思います。

家族に寄り添いながらコロナ禍など心配ごとがつきませんが負けずに生きて行こうと思います。

家屋解体中

 

忘れることのないふる里
仙台に避難移住 南相馬市小高区 門馬宣子

梅雨明けが待ち遠しいこのごろですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

この会報が掲載されるころには梅雨が明けているかもしれませんね。

原発事故から早くも 10年という月日が流れようとしています。

あの日、訳もわからず避難命令のもと自宅を出て、まさか 10年経っても戻れない状況になるとは思ってもみませんでした。

あれから、東京で 6 か月間生活したけれど、幼稚園の息子と、小学生の娘は東京の生活に慣れる様子はありませんでした。
そんな状況が続いて、少しでも自宅に近く安全な場所に移動しようと、仙台にやってきました。
仙台に来て子供たちが車から降りての第一声が、「小高と同じ匂いがする!」でした。
その時、涙をこらえたのが今でも忘れられません。

また、私の父は小高で生まれ育ちました。
仙台で一緒に生活しないかとすすめましたが、「俺は小高に戻る」と答えました。
慣れない土地で生活するのは精神的な負担が大きすぎるのも十分わかります。
しかし、離れて生活するようになるとそれもまた寂しすぎます。

父は生まれ育った家を守りたいと言います。
多分、同じ年代の方々は同じ思いの方が多いのではないでしょうか?
私たちにとっても住みやすかった土地でした。
しかし、子供達の未来を考えると戻れません。
やり切れない思いです。
国は大丈夫だとか言っても、結局生活する人が大丈夫だと安心できる状態ではないということなのです!

ふる里に戻っている高齢者を思う
私たちと同じく、家族が離れて生活するようになって、高齢者だけ小高に戻っている状況は多くみられます。
心配です。ただただ心配です。
今後、早急に、高齢者へのサービスやシステムの充実がもっとしっかりと行われることを願います。
一人ひとりが寂しくなく安心して生活で きますように。

憲法第3章より抜粋しますが、第 11 条国民の基本的人権の享有を妨げられないこと。
第 13 条すべての国民は個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利について最大限の尊重を必要とする。とあります。
憲法は何のためにあるのでしょうか?
国民一人ひとりが安全に安心して生活できますように願います。

現在、新型コロナウイルスが流行っており、 油断のできない状況でありますが、皆様も健康には十分留意してお過ごしください。
これまで活動していただいている國分様をはじめ事務局の方々には本当に感謝しています。

 

ふる里の思い
新潟市に避難在住 楢葉町出身 渡辺光明

今、私は新潟市西区のアパートで避難生活を続けております。
出身地は楢葉町(福島第二原発立地町)で原発事故時は農作業をしていました。
当時の年齢は 59 才、来年は 69 歳で 10 年の 避難生活となります。
被災地楢葉町の自宅はすでに取壊し、お墓は修繕し都度、新潟からお墓参りに家内と行っております。

楢葉町での隣組行事や冠婚葬祭はすっかり疎遠になりました。
それでも月一回はふる里楢葉町に行きますが、約 300kmの高速道路は疲れてしまいます。

浪江町、双葉町、富岡町、楢葉町の立地地域中心に今尚、帰還困難区域を含め 10 年目の今日、 震災時と同じ情景で無人の街並みは手付かずのまま放置されている状態です。
私たち原発被害者は今後も尚放射能による甲状腺がん、汚染土壌、農業、漁業の問題、学校再校、地域コミュニティ、商店街の再生等々多くの問題に直面しています。
国は汚染土壌を 30 年以内に県外へ最終処分と言うが、受け入れる所があるでしょうか、福島第一第二原発を廃炉にすると確認されたが、未知の状態です。
被害地域はこれから先を考えた時、見通せない状況にあると思います。
それでも高齢者はふる里の思いは忘れがたく、 原発事故以前を夢見てふる里へ帰還したものの、 地域コミュニティはなく、地域を破壊してしま った東京電力は、今もって責任を感じないのか 謝罪もない。
それどころか電力会社と国は原発再稼働を推進していることに憤りを感じます。

思い出深いふる里福島
福岡県うきは市在住 南相馬市小高区 槙 弘道

福島第一原子力発電所一号機稼働してから 40 年、10 年延長計画の矢先に大震災津波の襲来で崩壊した安全神話の裏切りと衝撃的な映像に言葉がなかった。

東京電力は日本の電力業界の頂点に君臨し一 団を追随させ、津波の予見も営利追求から見送り、他企業にも同意した行動を求めるなど安全姿勢は低かったのではないでしょうか。

原発事故でふる里喪失から生きる希望を無くし、強制撤去に翻弄され、賠償金格差で妬み嫉みが人の感情さえ変えてしまう社会の怖さと差別による惨めな思いがあった。

私たち家族は、縁があり九州に向かうが、多くの誹謗中傷や原発避難者を理由に息子たちへの求職も皆無のため断念、在住の市が進めていた新規営農研修制度で初体験の農業に将来を託す決断から、小高と似た環境下で数年の研修生 活経て自立したトマトハウス栽培に忙しい日々を送っている。
南相馬小高区は、家族それぞれ が悔いの残る思いと記憶を残した場所であり、放送機会も少ないが、福島の映像が出ると見入ってしまいます。

一喜一憂する家族の忘れられない「ふる里」 に想い描くなつかしさがあります。

 

庶民のための暖かい対応をいまこそ望む
南相馬市小高区 S ・ M

10 年一昔というが、長いようで短い、短いようで長い年月である。
この間、東電からは強制避難の代償としてある程度の賠償をして頂き生活をしてきました。
現在、医療の一部免除制度があり助かっております。
今後も免除継続されることをお願いしたいものです。

高齢の私にとって、病院にお世話になる機会が多くなります。
また遠い避難先からお墓参りも出来なくなってしまいます。

多くの裁判が行われていますが、一口で言えば賠償金の不足と国、東電の責任問題の裁判になっていると思います。
是非頑張って頂きたいものです。
東電と国は、裁判に立ち上がれなかった者達のことも考えてやらないといけないと思います。

事故からもうすぐ 10 年になります。
が、医療・ 仕事・学校等の諸問題をかかえ、帰還できない方々が多くいます。
10 年を区切りとして諸補償を打ち切るような事があってはならないと思います。

福島第一第二原発が全廃炉に決まっていますが、40 年とか 45 年とか架空の計画がされていますが、事故を起こした原発がメルトダウン、 スルーとなり廃炉できるのか解らない。
危険を伴う作業であることは明白です。
廃炉作業で二 度にわたる避難などが絶対にあってはならない。

 

原発事故は終わらない
飯舘村 伊藤延由

事故直後、縁あって京都大学原子炉実験所(現 京都大学複合原子力科学研究所)助教の今中哲二先生の側で先生の放射能を測る事を目の当たりにした、
そして測定器機の提供を受けその手ほどきを頂く事になった。

先生と行動を共にし度々説明会などの会場から「先生何時になったら元に戻るんだ?」の質問がありその都度先生は「300 年経てば千分の 一」とお答えになる。

この意味を事故後村内の放射能測定を続けて漸く理解出来た。

土壌減衰グラフはセシウム 137 が 4 万Bq/kg が半減期 30 年を経て減衰する

飯舘村で除染に投じられた費用は約 4,000 億円と言われているが村の面積の 15%、除染後の平均 1 万Bq/kg、これは手抜き除染の結果であり、 如何に巨費を投じても元に戻らない。

未除染の平均は 44 千Bq/kg、未除染の地はセシウム 137 の半減期 30 年を待つしかない、これが今中先生の 300 年で千分の一の理由です。

原発事故で放出された放射性物質は土壌を穢し自然の循環サイクルに組み込まれ 300 年間放射線を放出し続ける。これが原発事故の実態です。


間もなく 10 年
会津喜多方へ避難 南相馬市小高区 板倉好幸

震災より間もなく 10 年が経とうとしております。
未だに避難生活を送っておりますが、ようやくふる里小高に家を建て間もなく完成予定です。

お陰様で私は家具職人として、忙しい日々を送ってきましたが、震災というより原発事故で会津喜多方へ避難しました。
会津の方々には大変おせわになり家具工房を立ち上げ現在に至っております。
代々引き継がれてきたタンス等が 震災・原発事故で捨てられようとしていました。

100 年以上前のタンスとなると歴史を物語る大切な宝でもあります。
その大切な宝を修理させていただき納めてきました。
現在もこれからも続けていきたいとおもっております。
時代タンスは先人たちの歴史でもあり、それを引き継ぐのは私たちです。
何時でもご用命頂ければ幸いです。

 

故郷を追われて
会津若松へ避難在住 南相馬市小高区 管野和男

悪夢のような原発事故の中、預金通帳と幾許かの現金、着替えを持ち、2世帯7人の家族が 2台の車で南相馬市小高区を脱出してから9年 5カ月が経過した。

いつか全員で故郷に戻ると考えていたが、母は避難中に故郷の地を踏めずに亡くなり、仕事で残った息子とも離れ2重生活を強いられる現状です。

墓参に帰る故郷の風景は一変、自宅のあった 駅通り商店街は更地が多くなりその中にぽつん と建つ新築の家が目立ち、櫛の歯が欠けたような街並みに変貌、見知らぬ街に迷い込んだ気持ちになる。

隣組は1軒のみ帰還、他は移住した。以前 137 世帯の行政区の中でお世話になった先輩や後輩 達、3人の同級生も私1人を残し、この世にはいない。

小高に生まれ、育ち、土に還るのが自分の人生と定めていた。
息子や娘夫婦、孫達との穏や かな生活を一瞬にして破壊し奪った原発事故、 決して許すことはできない!

これまで原発事故被害者訴訟原告団の一員として、いわき地裁、仙台高裁に通い、多くの被害者の声を拝聴しました。
原告団員それぞれの家に、血のにじむような苦労の上に築いた生活の歴史を壊された無念さ、共感できました。
最後まで闘いぬく決意です。

 

原発安全神話の結末
埼玉へ避難在住 南相馬市小高区 横田芳朝

東電が大熊町に原発建設を始めたのは、60 年 ほど前の私が高校を出た頃だった。
当時、青年団活動の中で、原発反対などと叫んだ記憶はありますが、国策である原発建設は粛々と進められていった。
それと同時に、建設現場は大量の作業員を必要とし、一緒に反対を叫んでいた友達は、いつの間にか作業現場で働くようになっていました。
出稼ぎや、細々とした農業収入からいつの間にか原発建設の作業員が定職となり、 その高い賃金は、家を新築したり高級車に乗ったりと生活は一変していった。
こうした変化から反対運動している人達はいわば非国民扱いとなってしまったのです。

一方、国と東電は、原発建設と同時に、原発は絶対安全だということを過大に強調し地域の細かいところまで入って押し進めていった。
地域や町のあらゆる組織を使い全国の原発見学という名目で旅行に招待したり、学校の子供達には、原発関連の作品を募集し立派な副賞を添えるなどして行政も何の疑問も無く一体で進めたのである。
更に、国は、県と町には莫大な金額の原発交付金を交付しがんじがらめにしばりつけた。
こうした周到に作られた安全神話と原発マネーは、原発の危険性については殆んど議論されることも無く、従って反対運動もほとんど無くなってしまった。

東電は、地域が消滅してしまうという、取り返しのつかない大事故を起こし、原発に安全はありえないことが証明された以上、原発から撤退すべきであり、国も、将来的なエネルギー政 策から原発の在り方を見直すのが当然だと思う。
賠償金は加害者が勝手に決め騙すやりかたである。
地域コミニテイを壊し全てを失った私たち は絶対許すことはできない。

 

「原発事故被害者相双の会」は良心、良識の源
二本松へ避難在住 浪江町 原田雄一

月に一度、決まって私のところへ会報が届けられます。
会津若松に避難されている鈴木宏孝氏が送ってくださいます。
毎月休まず送って頂きました。心より感謝申し上げます。
先々月でしたか、「相双の会」会報が 100 号 になると知りました。
いつも読ませていただいて、毎号裁判のこと被災者の生活状況、健康など常に被災者の立場に立った話題をご提供し続けてこられた國分様はじめ事務局の方々に心より敬意を表する次第です。
本当に 100 号とは大変なことだと思います。
今、被災地に、大会社が進出とか、研究施設を持ってくることが復興のように言われておりますが、これまで住んでいた地域の文化、地域コミニテイが壊されたが、復活とは思っても、 事故から 10 年になろうとする今日、帰還率が 10%にも満たない復興の在り方は是非検証しな ければならないと思っています。
そのような意味からも常に被災者の立場に立って問題を提起 続けてこられた会報の存在は大きく、これからも私たちの良心、良識の源としてご活躍頂きたいと思います。

皆様のご苦労に心より感謝申し上げます。

 

それでも雑草は立ち上がる
福島原発かながわ訴訟原告団 団長 南相馬市小高 村田 弘

最近、ネットで「本当に強い雑草は立ち上がらない」という記事(稲垣栄洋・静岡大学農学 部教授)を読んだ。

雑草にとって最も重要なことは、花を咲かせ種子を残すことにある。
そうであるならば、踏まれても踏まれても立ち上がるというのは、かなりムダにエネルギーを浪費することである。
踏まれている雑草は、ダメージが小さくなるように、地面に横たわるようにして生えている。
そして、踏まれながらも最大限のエネルギーを 使って花を咲かせ、確実に種子を残す、というのだ。

考えさせられる一文ではある。

私たちは、あの日突然、原発という魔物の土足で踏みにじられた。
生き残った根と茎を頼りに裁判闘争に立ちあがった。
地面は放射能と、 下手人たちによる避難指示の線引き、目くらましのカネで、ズタズタに切り刻まれ、汚された。
それでも繋げるツルを繋いで闘いを続けた。
そして、いま、わずかな芽に希望を見いだそうとしている。
しかし、下手人たちは、この芽も踏みつぶそうと、執拗に踏みつけ続け、近ごろは鎌さえ持ち出して襲いかかって来る。
私たちも、断じて、大切な花を咲かせ、種子を残す。
そのためには、残念ながら、何度でも、何度でも、めげずに立ち上がることしかないのではなかろうか。

浪江町帰還困難区域の看板

 

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